首元に、熱い雫。 ● ●
涙声で呼ばれる名前。
ゆらゆらと、揺すられるたびに鼻をくすぐる、なじみのある甘い匂い。
ぼんやりとかすんでいる視界の中で、晴れた朝と、首元にかじり付いている涙声と柔らかい体と
僕に抱きついて、名前を呼んでいる。
嫌な名前だ。
一生まとわりつく呪いみたいな名前だ。ほら、名前からして、僕の不様な宿命を表しているじゃないか
柔らかい体はしゃくり上げ、湿ってぐにゃりと熱く重い。耳元でか細く、呟き続けている名前と、言葉にならない涙声。
巻き付いている腕だけがぎゅうと力強く、もう二度と解かれない気がした。胸が詰まった。切なさが、あふれた。
どうして泣いているの
僕が笑ってあげなかったからかな
夢をみたよ あの日も今みたいな いい天気だったね
君が笑ってて楽しかった 僕の前で誰かが笑っていて嬉しかった
僕は誰かを喜ばせたかったんだ。
それは僕の存在理由にも繋がるだろ
人を喜ばせてあげられる奴はその場に居て欲しいだろ、必要とされるだろ
だけどほんとは それだけじゃない
そんな建て前だけじゃない
幸せだな って 思ったんだ。
笑っている人を見ただけで それだけで僕は 純粋にただ 僕は
どうしてこうなっちゃったんだろうね
しあわせにしてあげたかったのに
この世界を変えられるという そんな 力が ほんとうに。 あるのなら。
笑う わらっていいの 笑え おまえは笑え
口の端が切れるほどその顔に笑いの表情を描け。
お前に望まれている事だ 僕は自分へ、ゆっくりと問いただす。
少しずつ、段々と強く明確な形を持って。途切れ途切れの呟きが、次第に輪郭を持って形成されてゆく。
笑え 彼女の前で笑え 救いたいだろう 今そう思っているのだろう
お前はひとを救いたかったのだろう 世界をそう したかったんだろう
それならば笑え 救いを求めるものの望みを叶えろ
彼女の体から、沁みてくる温かな体温。うなじから立ち昇る柔らかな匂いと湿り気。生きている。確かに生きている事を感じる。守りたいと思う。ばかばかしいほど強く思う。僕はそれだけの為にしか生かされていないけれど、
それでも思う、どうしても思う、この温かさは大切で、
この世にあるもの全てに等しく、おなじ 理由があるんだと
だから、僕は、望まれてるなら、望みなら、
叶えなくちゃならない、叶えたい、そうだろう。
笑え この口が裂けても血を噴出しても
望みを叶えるために笑え。
今目の前の君でも誰でも救いたいなら笑え。
猫みたいな丸い瞳、おずおずと持ち上がり、次の瞬間驚いたみたいにきょとんとした。
僕はその顔を両手で挟み、つるつると撫ぜて、
―――――そうだ、それでいい。
何を自分に望まれているか そう 常に自覚していないといけないのだ。
どんな時でも
立場
使命
役割
それがこの世に生まれてきた僕の・・・・・・
そうだ そうだったんだ
君は安心して笑っていてくれ
思い出したんだ
笑うよ
いい天気。
お前は何を愛した?
世界を愛した?
誰かを愛した?
自分を愛した?
僕は何かを愛した?
この世界すべて恐怖で、愛しい。
まばゆいばかりに恐ろしく醜悪なまでにいとおしい。
お前は何かを愛していたか?
愛している愛している愛している
同時に激しく拒絶している
これしか他に、術を知らない。
そこに居た ということで、始められ使われた上での、後付の理由。
存在する意味など初めから無かった 当然だろ
でもそれなら言ってもらえるかも知れない。目的も下心も飽和した上で、偽善者と呼ばれることを承知の上で、
いつか、などと、夢見た、コトバを。
―――――それが僕の、望んだことか?
常に誰かの望む何かに依って動いてきたけれど、
それともそうやって望まれる事で、己の在り様というものを得て来ていたけれど、
望みとは何だ。それは、ただひとつのコトバ。
その為に戦って、そう、戦うんだ。
だけど実際にはきっと、それを言われることも無く、
くたばるか、消えるか、忘れ去られてゆくのだろう。
だけど、
だけどさ、
「小包が届いたよ。」
思い出したんだ
自分の役割を。
僕はゆっくりと顔を上げる。入り口に立っているのは、逆光を受け黒い輪郭の、細い足、少女の影法師。
ポストに入っていたのよね。
また来たのよ、あなたに小包。同じ木箱の、あなた宛の、おくりもの・・・・・・
「どうして?」
「どうしてかな」
悲しみを帯びた声に、微笑みながら答えると、少女の影法師は不思議そうに首をかしげる。
「渡してくれないか、その箱」
「でも」
「開けてみるから」
「・・・・・・何が入っているか、わからないよ・・・・・・」
口ごもる彼女。箱を抱える手は強張っている。
分かってる。
「大丈夫」
中に何が入っているか、もう分かっている。
「渡して。」
影法師の足が一歩、す、と動く。
両手で静かに木箱を差し出す。
こちらをまっすぐに見つめている真摯な目。
「気をつけて・・・・・・」
「大丈夫。」
口元ではらりと髪が揺れ、自覚は無いけど僕はこの時、多分、笑みを浮かべた。唇を薄く開いて、僕は笑っているらしくて、箱を受け取る。少女の不安げな瞳が揺れる。
そんな心配そうな顔をするなよ。
古びて黒ずんだ木の板、正方形の底辺を床に置く。コトリと乾いた音を立てる。
はめ込み式になっている蓋に指を掛けて、
少女が小さく息を飲んで、
その瞳は刹那の悲しみに彩られ、
僕は微笑んで、
指に力を入れて、
自分を見失うなと、
これは贈り物。