何を考えているか わからない というのではなくて
 何も考えていたくないんです。
 そう僕は空っぽだから
 そう僕には意味など無い。

 “自慢の息子だ”

 守らないと
 何を守らないといけないのだ

 とうさんを
 僕より弱い父さんを
 僕を励ましてくれる声を
 必要としてくれる存在を
 寄りかかれば潰れてしまうその存在を

 だからそれ以上のことは、望むべくも無い。
 望みようが無い。





 ―――――家に帰れば、帰ったで、しくしくとすすり泣く声が聞こえるんだ。
 隠れて泣いているんだ。
 伏せた茶碗の中にうずくまるようにして。暗闇の下に、逃げ場を求めるようにこないだからずっと。
 父さん父さん
 どうして泣くんですか。
 僕はあなたの自慢の息子ではありませんか
 事あるごとにあなたは僕をそう呼んでくれたじゃないですか
 この言葉?この言葉が、あなたを傷つける、それなら、
 僕は今まで何を信じて生きてきたんでしょう。
 茶碗の下。自らの作った暗闇に、引きこもりしくしくとすすり泣くその声を聞いているとなんだか無性に腹が立ってくる。
 叫び出しそうになってくる。そうだよいつだってあなたは隠れてしまうんだ。するりとこの、左の眼窩へ。そして僕の脳にぴたりとくっ付いてビリビリ痺れる声を張り上げる。だって小さいからそれしか出来ないから無力だから僕とひとつになって。
 抱きしめてあげられない、もらえない代わりに僕ら親子は一体化する。そして僕はあなたを守る鎧になる。いつの間にやら意思など無い空洞の鎧だこの片目のような、ハハ。意味を考え出したら、内側から崩壊したんだ。居心地悪くなったあなたはそこから飛び出して逃げたんだ、違いますか違うって言ってくださいよどうかねぇ、ねぇ。
 父さん、聞いてますか父さん。卓をバンバンと叩く。伏せた茶碗がビリビリと震える。縁から滲み出ている涙のような水の染みに気付いた時、鳥肌が立った。悲しいか悲しいのかそんなに悲しんでいるのか自分だけが
 じゃあいざ求めた時にどうして拒否する!?
 求め方なんて知らなかったんだ、
 いつも僕は要求されるだけだったんだ、そんな僕が
 自分の意味 に 揺らいだ時、あなたは一体、何をしてくれた!?
 茶碗の下からでは何も答えられない。叫びながら僕は、分かっている。なんにもできない、分かっている。
 かすかにか細く、名を呼ばれているのが聞こえる。目を伏せ、顔を背ける。背けた目線の先に、
 黒ずんで古びた、木箱があった。いつかの朝に、ポストに届けられていたものと、
 まったく、おなじの。
 ・・・・・・父さん、これは・・・・・・
 口の先が震えながら、目が、吸い寄せられ離せない。
 いつ、届いたのですか、また・・・・・・
 ―――――どうしてだどうしてだどうしてだ。
 指が震える。ギリと歯噛みする。触れるな、開けたくない、腹の底から冷たいものがこみ上げてくる。全身の総毛立つ、キンと凍りついた炎。
 蓋がかぽん、と、外れれば、
 炎がゴッと音を立て、頭の天辺を突き破る。
 白いオカリナ。
 愛用の笛。
 いつも僕のポケットに入っている。箱の中、それとよく似た、いや、同じもの、触らなくても確かめてみなくても、もう、分かる。同じ笛だ。僕の笛だ。見知らぬ誰かから送られてきた僕自身を形成する要素とも言うべき重要な
 僕に何を
 何をどうしろって
 もう沢山だ求められるのも利用されるのも忘れられるのも待ちわびるのも沢山だ沢山だ沢山だなのに
 なのに どうして
 ―――――ふざけるなァッ!!
 木箱を蹴り飛ばす。壁に当たり、激しい音を立てて横倒しになり、中からころころと白いオカリナ、転げる。木箱を蹴る。何か口でわめきながらガツガツと蹴り続ける。羽目板にヒビが走って裂け、尖った繋ぎ目が素足を刺す。足の爪は割れ、辺りに血の滴が振り上げるたびに飛び散る。背後で父さんが、僕の名前を呟き続ける。茶碗の縁の染みはどんどん広がってゆく。
 ひしゃげ、木片の残骸があるばかり。足が止まった。見つめる。じっと見つめる。肩で息をしている。不意に笑い出す。
 ゲラゲラゲラ。
 転げ出たそのオカリナを握り締めて。
 これで、戦えと。
 天井を見上げて、ゲラゲラ。手のひらの中の、冷たい陶器の質感。笛だ笛だ。
 戦えと、いうのか。
 ゲェラゲェラゲラゲラゲラ。
 次の瞬間には瞬、と、空気の切り裂く音を立てた。刹那、後方の覗き窓は音立てて粉砕される。笛の吹き口から伸びた鞭はいつも以上にしなやかで、床板に膝を立てた足裏の傷がじくじくと痛、痛痛痛、
 ちくしょう
 ちくしょう、ちくしょう
 そのまま、笛から伸びる鞭の動きそのまま、僕は部屋中の物を粉砕する。冷たく凍りついた炎は腹の底で燃え盛り、頭頂から火花を散らして吹き上げ、眼窩から零れ落ちる残りカスはいつの間にか涙に変わっている。
 背後で父さんが、僕の名前を呟き続ける。
 持ち上げた茶碗の隙間から、じぃっと、じぃっと、見つめている目玉がある。




「どうして笑わないの?」

 昔聞かれた事がある。
 花摘みの途中の、猫にそっくりの少女に。
 れんげ、菜の花、すみれに蒲公英。風が吹くなら桜の花びら、雨を望んで露草、紫陽花。
 色とりどりの花に囲まれて笑うその顔はほんとに可愛かったので、
 そう言ったら、照れて頬を赤くして、その後、思い出したようにこう聞いてきた。
「あなたはどうして笑わないの?」
「そうかな。笑ってるよ。この前だってさ」
「あの時はみんなに合わせていただけでしょう。口開けて大笑いしている所、あたしの覚えている限りだと、見たことが無い。知らないの。」
 良く見ているなぁ。
 そうじゃないもん。また頬を赤らめて、怒ったみたいにそっぽを向く。でも、すぐに振り返って、持っていた花が揺れ、淡い香りが風に舞った。
「あたしがして欲しいのはさ、あなたに、大口開けて楽しそうに笑い声を立てて欲しいって事なのよね。」
「大口、・・・・・・かぁ・・・・・・。」
「うん。ちょっとやってみて。・・・・・・ぅうん、なんか違うな、えーと、そう、もっと・・・・・・んんんそうじゃなくて、自然ー、に、そうそう、えー・・・・・・駄目かしら。」
 顔中を引っ張られてちょっと痛い。
「なんかね、楽しそうにしてても、悲しそうなんだよね。」
「悲しそう?」
「うん・・・・・・楽しく思うのを、押さえてる感じ。なんとなく。」
 れんげの花、口元で、薄紅、くるくる回転する。物思い気に少女は、
「笑って欲しいな」
「うかつに笑えないよ」
「どうして?」
「・・・・・・だって、後で、嫌な事が起こったら困るじゃないか」
「嫌な事が、起こるの?」
「・・・・・・起こった時に、笑っていた自分を、振り返るのが嫌だからさ」
 あぁあの時に笑っていたなって。
 こんな事が起こるのも知らずに脳天気に楽しんで。
「そしたらその分、辛くなるだろ」
「起こってもいない事で、そんな風に思うの止めなよ」
「笑った分だけ、減るような気がして」
「何が?」
「幸福が、さ」
「そんなこと、あるわけないわよ。」
 強く少女は言い切ってしまう。怖いんだ。サァと風が吹き、まぶしく落ちる陽光が、たなびいた厚い雲の向こうへ姿を消した。辺りにすっと灰色の影が差し込む。わずかな切れ目から覗いた光が、少女の背後へ伸びていて、光に照らされた後に出来る黒い影、僕の足元に届いている。怖いんだ。必ず出来るその影。事態は音も無く気配すら感じ取らせず、刻一刻と進行している。粛々と静かに忍び寄る。今こうしている今も、無言で僕は試されている?この世に在る以上、終わる事は無い?
 サァサァと草花は揺れる。風にそよぎ海原のように波打つ。
(減るような、幸福が)
(減るほどの、幸福が、お前にあるのか)
 笑って欲しいな
 それでも彼女はそう言った。
「生きてるんなら、笑ってよ。」

 あたしはあなたの笑顔が見たい。
 光を震わす、笑い声が聞きたい。
 この世界にこの望みを否定する、権利なんてないわ
 生きているなら、笑ってよ。