「抱きしめて、もらいたかったのか?」

「この世に生まれ落ちたお前を、祝う初めの大きな手を。母体という温い宇宙から飛び出した先は、冷たく湿った土の中だ。這い出してきて上げた産声は、風雨と拒絶でかき消された。この世界に居場所はあるのかと、今も、心のどこかで怯えて。
 甘えたちゃん。
 反吐で満腹になりそうな話だぜ。」



 腹の膨れた妊婦が目の前を歩いている。
 杖を突いて腰の曲がった老人が向こうから歩いてくる。
 おいおい何をする気だよ
 電柱の陰から覗いている、悪臭を放つ男は、そんな風に囁きながらじぃっと僕を見つめているのだ。
 何を考えているんだよ
 過去最強のノイローゼヒーロー 皆がお前に期待してたんだぜ 聞こえるだろ ほら
 お前の名を呼んでいる声 呼んでいる声 いつも 今も どんな時でも
 どう感じるのかなんて御構い無しだぜ
 妊婦の腹の中から子供は生まれるだろう。
 老人は腰の曲がるまでの長い年月を経てここに居るのだろう。
 笑える 電柱の陰から男は囁くのだ。笑える よぉヒーロー お前の正義は もともと何のためであったか言ってみな
 何のために正義を振りかざしてきた?
 僕がさ僕が。僕は声を出す。僕が、あの腹を破りあの腰を折ってしまえば、簡単にその生命は絶たれてしまうんだ。
 とくとくと温かに続いてきたその命、簡単に終わらせてしまえるんだ。
 ねぇ聞いてくれないか。僕はやらない、やるもんか絶対に、それどころか守っていたよ、守っていたよその人生、聞いてくれよこっちを見てよ、どうして聞こえない、叫んでも届かない、わかってるよわかっているんだよ、でも!
 いつだってそうだろ、おんなじだ、僕は結局無視され続ける、都合よく耳をふさいで聞こえない振りだ、それともこの声は、この声なんてはじめから、誰にも聞こえないように、出来ていて・・・・・・
(ヒーローだからさ ヒーローだから)
(負の要素なんて持ち合わせている はずが無いんだ だからその声は)
 空っぽの眼窩いっぱいに、反響するコトバの羅列。やめろやめろやめろ。
 背後であの男が笑っている。
 声をひそめて笑っている。僕はがくりと膝を落とし、頭を掻き毟って血を流し、・・・・・・血を流し、
 血を流す、血を流すんだ僕だって。
 しゃがれて震えた声はひどく醜い。叫ぶのに慣れていない喉の奥が熱を持って痛い。
 血だって流して戦っているのに、どうして誰も気付いてくれない。
 不様だ。不様だ醜悪だこっけいだ。
 どうしていつも忘れてる、どうして誰も気付いてくれない。
 おい 勘違いするなよボウヤ
 苛立った調子の鋭い声が、ピシリと背中に突き刺さった。ハッとして、顔を上げる。
 悪臭は風に乗って急速にその範囲を広げている。不気味な存在感じわりじわりと、突き刺さった背中に迫り来る。
 当たり前のことじゃねぇか そんなこと
 気付くもんか 気付いて一体 どうするってんだ
 役割をはきちがえるな
 誤解するな 付け上がるな のぼせるな
 お前の役割は そんなものだろ
 それ以外の事を 誰もお前に望みはしなかったぜ
 今更 今更 今更 何を言い出すんだ お前は
 僕の、震える両指の上に、ぽたぽたと赤い血が、滴り落ちてきて。
 アスファルトに染み込んでは、消えて。何事も無かったかのように。痛みだけが残り、その間にも幾人の通行人は素通りして行く。
 父さん、父さん父さん父さん。
 教えて下さい。左の眼窩には何も入っていない。
 僕は何のために人を助けるのですか。
 何に向けられた、何の為の、正義なのですか。
 父さん僕に、悪い奴をやっつけろと言った。
 お前は世界唯一の一族の末裔で残された最後の希望で。
(ちがうだろ)
 違うだろ
 そんな大義名分なんざ関係ねぇ
 声が僕の背中を押した。
 そのまま顔面から道路へ倒れこむ。強く顔を打つ僕を、誰かが、皆が、笑っているようで、上げることが、出来ない。不様ね。可笑しい。笑い者だわ。
 こんな良く晴れた白昼にこの子ったら。
 妊婦が笑う。その手に抱かれた、臍の緒を巻きつけた血みどろの胎児も笑う。老人が笑う。杖を突きつけて、こいつの様子を見てみろと、声高に指し示し笑っている。
 お前は自分のために戦ってきてたんだ
(自分のための、正義なんだ)
 見失ってんなら 言ってやろうか 存在証明 だったんだろ?
 中途半端に生き続けるだけの お前という存在を ここに保つための
 言いつけに従ったり 守った者の笑顔が見られたり
 するとお前は安心するんだ
 間違ってなかった 自分のした事 いや むしろ
 間違ってなかった 生まれてきた事
 そのために自分は生まれてきたんだって 理由が出来て安心して 救われたつもりになって
 だからその核には何にもねぇ
 そんな自慰行為のお題目なんかじゃ何の意味ももたらさねぇ
 ポストに手紙は 入っているか?
 今日もポストに 手紙は 入っているか?
 ―――――さぁ一斉に、僕の名前を呼ぶ声が。辺りをぐるぐるこだました。
 やめろ、違、違うよ。
 冷たい道路に這いつくばったままで、口が、そんな風に動く。血の匂い。流した血はいつの間にか消え痛みだけがいつまでも残り。
 違うよ。僕は。そんなんじゃない。
 ぐるぐる回ってさざめく声は、子供の笑い声にも似ている。名前を呼びながら、こんな風に答えた。
 しってるよ
 だからよぶんだ
 おまえの名。
 さぁここに居たいならぼくらをまたまもりなよ
 せいいっぱい死力を尽くしてまもりなよ
 その命かけていつかボロボロになってくたばれる時が来るまで
 諦めて笑うことも途方にくれて泣く事も出来ないおまえという 存在が
 ちゃんと続いていけるようにほら まもりなよ
「正義とは すがる物だったか?」
 そして悪臭を放つ男のその圧倒的な存在感が、僕に圧し掛かり、潰し、
 こう言うんだ。
「すがる正義 みっともねぇ」

 こんな良く晴れた白昼にこの異形は。