4代目 運命の人 *3

 踊っていたよ
 赤い川の水を 全て
 煮えたぎらせるそんな 振りで。
 大声で歌も歌う
 見つけてくれよ と 喉から血を吹き出して
 首も手足も胴体もばらばらに飛ばしている
 ここから消えて無くなればいい 無くなってしまいたい
 願いを込めた 振りで。





 …… 明るく、しないで。
 見えちゃうでしょ。
 薄暗がりの中、閉じ切った扉の中、
 ぺたりと床に座り込んだ男は、ぼさぼさに伸び切った髪の下で薄い唇を広げて、低い笑い声を落としている。
 明かりは、無いよ。
 見えちゃうからね。
「何が?」
 立ち方。オレの、立ち方。
「別に」
 知らないくせに。あんた知らないくせして。
「この前見たけど別に何も思わなかったよ」
 おせいじばっかり言っちゃってさ。ほら、
 呟きながら男はゆらーり、光を遮断した暗い室内、音も無く、立ち上がる。白いパジャマだけがぼんやりと発光しているみたいに浮き上がって見える。人の形を成している。見える。
 両肩を少し、持ち上げて。うつむいて、薄笑いで、ゆらゆら、案山子の様だ。一歩踏み出す。近付いて来る。薄笑いのまま音も無くふらり、ふらり、ほら、近付いて来る。来る。ほら、
「だから?」
 立ち方。
 ヘンでしょ。
「別におかしくないよ」
 かくり。男が首を上げた。目だけが髪の中で異様に光って覗いていた。薄笑い。かすかに唇が開く。
 そうかなぁ。
「気にする事でもないよ」
 そうかなぁ?
「思い込みなんじゃないかな」
 思い込み?気にし過ぎ?
 ……なんか前にもそういうこと言われたことある気がする。
「何て言われたんだい」
 ……嫌だ、わかんない。
「何が、わかんない?」
 思い出したくない思い出したくない、思い出はいっこもないから
 喋らないよ
 また、
 男は頭を抱え込む。唇はまだ、顔の上に笑いの形に貼り付いている。
 また、何か喋って、
 ダメだったら、こわいから。
「……あんたのそれは、思い出せないんじゃなくて、思えない、んだよ」
 言葉を発しながら僕は片頬を歪めている。あんたが笑うから僕は笑えない。ねぇ、あんたもうさ、
 笑うの、止めなよ。
「いっこもないんじゃなくって、それは、思い出せない、んだよ。あんたは思い出そうと思えないんだよ。そうして色々目を閉じている」
 目?閉じてる?僕の言葉を口の中で反芻して、男は一瞬何か考え込んだように見えて、
 それから何かに気付いたような顔をして、嬉しそうに笑い、
 ……あぁ、あんたも閉じてる。そしたらおんなじなんだねぇ。ふふふ。
 僕の顔にぐぅいと手を伸ばした。指が、冷たく、髪の下を撫でる。
 髪の毛の下に隠された片側。その下でほら、
 閉じてる、目。
 痛かった?これは、痛くなかった?
「……小さい頃の事だから、覚えてないよ」
 痛み我慢したの?偉いなぁ。よく頑張ったんだなぁ。
「生まれてすぐの事だから、わからないけど、泣いたんじゃないかな。多分、泣いたよ」
 くすぐったいよ。ここで初めて笑った僕の顔を見て、男はまったく嬉しそうな顔のまんま、何度もひとりで頷きながら指を引いた。えらいなぁ。首を振る僕に言い含めるように繰り返して、えらいなぁ、がんばってたんだなぁ、
 ……オレには出来なかったなぁ……
 あ、ここって自分の話をしていいところ?また自分の話に持ってっちゃうってあんた思う?思ってるのねぇ?どうしてオレいつまでたってもダメな
「何が出来なかったって言うんだい?」
 ……我慢すること。痛くても。我慢しきること。心の通うように話をすること。笑ってもらうこと。そのほかせいかつのぜんぶぜんぶ。
 泣かないこと。呼ばないこと。怖くても辛くても誰の名前も呼ばないこと。負担になっちゃいけないんだ。
 例えば世界がオレひとりを残して過ぎ去ってしまっても。
 でもさ。
 嫌だよ。
 またひとりぼっちに戻ってしまったって気付いた時怖いよ
 今までここに居た人が居なくなってしまった時の空いた席怖いよ
 また元に戻っただけなのに
 ふたりぶんの あったかさを 知ってしまったから ひとりが ひとりが こわいよう
「だから、電話をかけて、あんたは、呼ぶんだ」
 もうひとりはいやだよう
「あんたから離れて行った友人に、あんたはずっと電話をかけてるんだ」
 戻って来てくれよう また前みたいに おんなじに オレと お喋り してくれよう
「『お喋りの時間』はあんたが電話をかける時間。呼ぶ声は過ぎ去った過去が呼ぶ幻聴。思い出の中で、あんたは時間を止めて、過ごしている」
 なんでさ、ねぇ
「電話から聞こえる声はあんたの願い」
 なんでそういうこと言うの?
「そうであって欲しい、と、あんただけに聞こえる、あんただけが気付いていない、
 まぼろし。」
 

 ――――― じゃああんたが、さぁ、今度は、いっしょに、居てくれるっていうのかな。
 ほらまた男は うっとりとしたまなざしで。
 そういうこと言うってことはさ、あんたが、さ。さぁ。
 ね、うふふふ。伸ばした手をつかんでくれるんだろ。うふふふ。待っていたんだよ ずうっと
 ずうっと一緒に遊んでくれるともだちを。
「結局誰でもいいって言うのかい、傍に居てくれる人なら」
 あんた優しかったね。オレが見れないでいた目を、目を、ずーっと見て話してくれてたね。それでオレがどれだけ感動してたか なんて あんた知ってた?
 わかんなかったでしょ わかんないんでしょ永遠に結局。だからさぁ、そういうひとはさぁ、
 いっしょにいればいいのよ。ずーっとひとつみたいに一緒になっちゃうの。おんなじひとになってお喋りするの。そしたらわかる、きっとわかるオレのこころ。わかってくれるよ。
 嫌だ は、無しよ。ふふふふふ。
「あんたの心が僕にわかっても、僕の心は、あんたにわかんないだろ」
 拒絶、は、聞こえないのよ。うふふふふ。
「自分の悲しみばっかり、いつまでも大事で。どうして聞こえなかったんだ、どうして聞かなかったんだ」
 あれ なんであんた、笑っているの
 悲しい顔だね
 オレは笑っているのに。オレは嬉しいのに。オレは嬉しくて笑っているのに。あんたは。
 笑っているの。何だかオレが今までに出会った事の無いような そんな顔  泣いているの
「離れて行くなら、認めなくちゃいけないんだ。ずっとすがってはいられないんだ。誰も居なくても、初めから、ひとりなんだ。それなのに、それなのにあんたは」
 いつまでも気付かない振りしてはいられない
 いつまでも目をそむけてはいられない 無理なんだ
 …… ねぇあんたとだったら、オレは、
 電話以外でもお喋り していたいって、思ったよ。
「放っておいたら、まだあの人間を、連れて行こうと思っているんだろ」
 連れてかなきゃ
 連れてかなきゃ だって
「連れて行かないと気が済まないんだね」
 オレがこんな事になってしまった理由が見つからない。
「なら僕は止める。止めるのが僕の役割だ」
 ねぇ、あんたも、やっぱり
 オレのこころが弱かったせいだって、思ってる?
「あんたがもう人間でないのなら、人間に危害を加えようとしているあんたを、僕は止めなきゃ」
 みしり、と床板が軋む。一歩踏み出した僕に、気圧されるみたいにわずか、後退する男。その目はもう、黙って僕をじっと見ていた。僕も逸らす事はしない。僕の、目の中に映っていたもの。
 頭頂に白い丸い皿。
 何か重いものを背負って丸く縮こまっている背中。
 突き出ている口元。指の間の広い薄皮。息の詰まる淀んだ匂い、水底の、沈殿した思いの、
 皿が光を反射している。天井にゆらゆら、波紋みたいな影を作る。
 その姿になったのは、その姿に、変わってしまったのは、
 誰の、意志?
「わかってるんだろ」
 知らないよ
「あんたはもう、ここに居る事は出来ないんだよ」
 聞こえないよ
「聞こえないの、そう」
 オレはなんにも、聞こえないの
 ヘラヘラと笑っている、その目の真ん中へと突きつける。
 黒く光る、薄汚れた、ずっと、足元に転がっていたあの携帯電話。
 聞いてみるかい。
「何て言っているのか、聞いてみるかい」
 いやだよ
「ずっと喋りかけて来るんだろ、ほら」
 逃げ出すその手を、ぐいと引いて。男が小さく悲鳴を上げた。髪の間から覗いている白い耳に、その端末を押し当てる。硬直する男の身体。ひやり、という、冷たい衝撃が、己の身にも走ったような、戦慄。そんな気が。
「何か聞こえるか」
 いやだよ
「何かあんたに言って来るのか」
 いやだよ
「何て、言ってる?」
 ずっと ともだち
 いつまでも いっしょに ―――――

『お客様がお掛けになった番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上もう一度お掛け直し下さい』
 もう いっしょにいたくない  おまえといっしょに いたくない  もう いっしょにいたくない はなれてほしい はなれてほしい
 もういい加減うんざりだ。



 やめてくれ
 男は叫び声を上げた。
 やめてくれ 頼むからもう やめてくれ
 もうやだ もういやだ もういやだいやだ いやだよお
 床に崩れて、泣き叫ぶ。胸が破れてしまいそうな声で、耳をつんざく悲鳴で、子供のようにわんわん泣きわめいた。握り拳で床を叩く。力無く何度も叩く。幾度も声を張り上げる。
 いやだよお 痛いよお もうやめてよいやだいやだいやだよお
 切りたい これ、この電話、
「切りたい?」
 切りたい、この電話を切りたい
「切りなよ、切られたんだろ、あんたが通話を終わらせなよ」
 切れるの 電話切れるの どうやったらもうおしまいにできるの
「ほら、このボタン、このボタンを、押すだけだ。大丈夫、出来るから」
 悲しい言葉で、終わらされたんだろ。あんたの世界も、おしまいになったんだろ。
 通話終了で、断ち切れる。
 指先ひとつで、全てが終わる。
 ならば今度は。
 ほんとなの
 しゃくり上げ、嗚咽の残る声で男が問う。
 僕は頷く。泣き声はそこでしばし、しんと止む。
 オレは、切るよ
 やがて男は顔を上げ、まっすぐに僕を見上げて言った。
 目蓋が腫れ、子供みたいに。涙がいっぱい、溜まっていた。
 オレが、切るよ



 指先が触れた瞬間、跡形も無く姿は消え去った。
 風に吹き散らされるように、男の姿は黒い粒子になって散り散りに、さらさらと散じて消えた。

 暗闇。






ooooo    ooooo