百 年 の 星








 僕が、目を開けている事を知っていたような口振りで、
「起きていたのか、眠っていて欲しかったのだがね。仕方が無い。そこにそうしてじっとしていてくれたまえ。じきに夜が明ける」
 彼はそう言った。すっかり衰えて、骨と皮ばかりになってしまった体を半身ばかり起こして、いつもの、枕元に置いてある煙管を、暗がりの中、手探りで、探している。
「駄目だ、動くのではない。気遣いは有り難いが、君は今動いてはいけない。いっそ動きを"禁"じてやりたいがね。実の所そういう手荒な心境なのだ」
 薄いその唇を引いて、にやりと笑ったように見えた。
「もう何も出来ない。何を"禁"ずる力も無い。もうそろそろだな、そろそろ、私は」
 言葉を切る。
「だから君は動くな。そこにじっと、していてくれたまえよ。私からのこれが最期の願いだとすれば」
「もうじき夜が明けるな」同じ事を再び、何てことの無いように唇の先だけで呟いて、彼は暗い窓の外を眺めながら咳き込み、ゆるゆると煙を吸いつけた。
 赤く燻る葉の熱が暗い手元にチラチラ光って、幽鬼のような彼の面持ちをぼんやりと照らし出す。
「君、何を恐れているんだい」
 こちらを見ないで、低くクックッと笑っている。
「そう閉じるな。君に何にも、しやしないよ。出来るわけが無いじゃないか。まだ閉じているな。ずっと閉ざしたままだったね。お終いまで君は開くことをしなかったね。だがそれもいい。君がそれなら生きていけるのならそれがいい。
あと何年、何百年の先になるのかな、私がこれから向かう所へ君が来るだろう日は、いや」
 底意地の悪そうなその顔で、フン、と、鼻先で、自分の発した言葉を吹き飛ばす素振り。
「そんなものは無いな。終われば、終わるだけだ。その後を私は信じない。今でも信じない」
 永久に信じるつもりは無い、と、言われたことを思い出す。
 出会い頭に、言われたんだった。
「それでも君は私の側に居たな」
 しなびれた喉から細い煙が、ゆらゆら、切れ切れに立ち昇り、閉ざされた室内に溜まる。浮遊して沈殿して繰り返してゆくみたいに、溜まる。
「長い時間をずっと、居たな。どうしてだい。答える気は無いかい」
 指ですくえそうな紫煙の筋。
「礼を言おうと思っていたんだよ、ずっと。礼をね。ありがとう。そして、謝罪を」
 ありがとう。渡すみたいにゆっくり、はっきりと区切った声音で、彼は繰り返す。
「ありがとう、今日この日までもずっと、そこに居てくれて。しかし君には済まない事をしたと思っている。どうしたって先に行かなくてはならない定めなら、あんまり側に居てもらうべきでは無かったな」
 そして彼は僕を見る。
「私が居なくなったあと、君はどうすればいいだろう、それだけが、困ったな」


 少し窓を開けようかと軽く腰を浮かせたら、病人とは思えない力の強さで、ぐいと手首をつかまれた。
 火を灯されたように熱い、と感じた。
 常には聞かないような慌てた、上ずった調子の声で、駄目だ、と囁く。
「駄目だ、動くなと言ったろう。まだだよ、まだ少し早い。それまでそこにそうして、動かないで、じっとして居たまえ」
 木の枝みたいなぽきりとした指を伸ばして、何度も髪と頬をすく。
 落ちつかせようとしているみたいに何度もすく。離れず、何度も。
「もうじき夜明けだ。そう急くな。会えなくなる前に、残しておこうという言葉がある。この間際にも言葉だというのは、いかにも往生際が悪いかね。しかし何処までも私らしいだろう。呪にして残してゆく。刻み付ければいいと念じてね」
 君は君で居たまえ、と言った。
 君であることに誇りを持ちたまえ、と。
 己に自信を持て揺るがずに
 君は君であることが素晴しい
「こんな事、人に言うべきことではないだろう」
 底意地の悪い顔はにやりと歪んで、心底可笑しそうな目の色を浮かべている。
「言われた君だって、ピンと来ないだろう。当たり前だ。言った本人だって、そう私だって、そんな人間ではなかったんだ。己に揺るがず生きている者など居ない。そんな奴が居るならそれは神か狂人だ。正しくない言葉だ、伝えるには」
 撫ぜる手は肩に下りる。触れた所から、熱が染みてきて、じわじわと、まるで、熱いような。
「だが伝える。君には、伝える」
 彼の手の熱で自分の体の冷え具合を知る。
 可笑しいな、と、彼は言った。
「矛盾しているな、己はそうなれなくて放棄した、というのに。無責任な言葉だ、人にはそうであって欲しいなんて。勝手に言い放って、言い逃げか。己の心のやましさを、美しく飾っただけの常套句に過ぎない、か。
 そうではない。
 これは望みだ。
 君がそうであっていられるように。
 そんな風に君が、在ることの、出来るように」
 望みは、祈りだ。と彼は言った。
「そして笑えばいい。どんな顔でもどんな声でもいいから。場所だって時だって誰が居ようが居まいが、笑いたくなる時が来たその時、笑ってくれればいい。腹の底から割れる程の大声を出せ。全身でその感情を天に向かって表現しろ。それが私の望みだ、希望めいた、祈りだ」
 はは、は、傲慢極まりないだろう。彼は乾いた喉を震わせる。
「揺らぐ、ことを禁ずると、人は人でなくなる。だから私は至極真っ当な人間だった。揺らぐ事が無くなればその存在は消えるんだ。私が、あの時、もし君を"禁"じていたら、何が起こったか分かるかね」
 首を振ると、彼はいつものように、唇の片方を少し上に吊り上げて、少しも嬉しくなさそうなその笑みを浮かべる。
 そして、いい子だな、と、言った。
 いつものように、同じ調子で、彼は僕にいい子だな、と、言った。


「始発電車の走る音が聞こえるな」
 遠くの方からかたたん、かたたん、と、規則正しいリズムの振動が、僕の膝の下に静かに響いて来るような気がした。
「窓の外を、誰かの歩いている足音もする。新聞屋かね、そろそろ夜明けだろうか」
 言いながら彼は深々と煙を吸いつけた。そのまま、しばし無言になる。
 夜闇はゆるんで、自分の膝の輪郭が、おぼろに見て取れるようになっていた。かすかに鳥の鳴く声も聞こえたような気がしたが、それは空耳だと思われた。
 握り締めた手を開く。指の数が数えられる。彼の横顔は伸び放題の黒髪に隠されて、その表情は見えない。煙を吸うのを止めていた。心持ち、うつむいている様な、しかしきっと鋭く前を見つめている様な、不思議な空気の張りつめ方をして、彼は黙って座っていた。自分の呼吸音だけがやけに耳についた。
 やがて、「外が見たい」と彼が口にする。「手を貸してくれたまえ」痩せ衰えた枯れ木のような腕を、僕の前へ伸ばす。
 嘘のように重みの感じられない体を支えて、窓辺の障子を引いた。からり、という乾いた音をたてて開かれると、ひやりとした冷たい風が吹き込んで来て、寒い、と思う。
 その時、彼がふいに体勢を変えて、真っ直ぐにもたれ掛かって来た。何だかわからずに驚いて、反射的に身を引いて様子を窺おうとする僕を、まるで読んでいたみたいに、片腕でぐいと胴を押さえ付ける。もう片方の腕が肩口に回って、身動き出来ない程の力強さでしっかりと抱き締められた。首筋に顔を押し付けて、彼はひとことも言わなかった。ひとことも言わずに、僕の体をぎゅうぎゅうと抱いた。
 そして、
 首筋にその顔を埋めたまま、
 かすれて、つぶれた、消え消えの声で、
 闇を穿つようにカン、と響く、出会った時と同じあの頃の そのままの 声で、
「ありがとう、さようなら。ありがとうありがとうありがとう。さようなら」
 薄い唇を吊り上げて、にやりと笑った、ように見えた。










 朝になれば、
 空には星がひとつ増えるだろう。
 彼のことだ、
 それはそれは大きくて、きれいな、
 一等星のように光り輝く星になることだろう。
 きっと昼でも輝く筈だ、黒地に白抜き、赤い五芒星。
 呪にして残してゆく
 刻み付ければいいと念じてね
 例えどんなに不様でも構わない いつか笑っていてくれよ
 世界を守れなくてもいい 声を上げて笑っていてくれよ
 君が 君で 居られますように





 一度でも開けてしまったとしたら
 開きっぱなしになってしまうと思ったんだ
 だからずっと
 開かないように
 開かないように
 開かないように
 開かないように
 開かないように


 開けなかった。














自分設定 一刻堂 さんでした
なべ丸さんの見解に感銘して書いてしまいました 勝手ですみません
なべ丸さんからいただいてしまったおたからはこちら→  *** 

やりきれない感が強いので申し訳程度におまけ→  ***