まだ学校へ行っていた頃のことだ。ぼくは友達というものができなかったので、クラス内ではいつも一人だった。授業中グループに分かれて作業する時も一人。給食を食べる時も一人。ある日遠足に行くことになった。野を越え山を越え、歓声の響く中辿り着いた見晴らしのいい高台。空が良く晴れていた。先生が自由にお友達とお弁当を食べましょうと言った。ぼくは一人で木陰にしゃがみ込み、別荘番の作ってくれた弁当を広げる。リュックの中でいやにかさばるなと感じていたその中身は、サンドイッチと、大きなタッパーに入った沢山のカットフルーツだった。どう見ても一人では食べきれない量の。
 きっと別荘番の夫婦は。あの二人は。早く起きせっせとこれをこしらえて、良かれと思って、持たせてくれたのだろう。お友達みんなに分けてあげて下さいね。お友達とみんなで、わいわい楽しく、食べて下さいね。
 食べやすいようにきれいに切った、見た目も美しく手の込んだ、盛り沢山の、
 フォーク以外に6本、色違いの楊枝が添えられていて、みんなで食べることができるように、
 ぼくはそれを無理矢理腹に詰め込んだ。食べ切れる量ではなかったが必死になってひとつ残らず頬張った。帰りのバスの中で腹痛を起こし、そのまま病院へと運ばれた。クラスメイトは決して触らずぼくを見送った。「あいつはいつも必ず何か問題を、起こすんだよなあ」
 家に帰って遠足のことを、どう報告したのかは、覚えていない。




 森に入って行く、後姿を見つけた。
 あの子が一人で森に入って行く。
 頼まれていた仕事を一時中断して、私は後を追ってみる。
 嫌そうな顔をされるのだけど。
「メシア、」居た居た。そういう感じで声をかけようと思った。一瞬、ためらわれた。出来なかった。
 鬱蒼と広がった森の、大木の脇、陽の当たる大岩の上に腰掛けて、
 後姿が、見慣れないような。  なんだかいつもと違うような。
 吹いて来る風に髪の毛なすがまま。ぴかりぴかりと時折光る。じっと空を見上げている。

「メシア」おや声が出た。無意識の内に口から滑り落ちた。「何をしているんです?」
 この声に振り返ったその顔は、私の想像していたものとは違っていた。驚いて勢い良く振り返る、不意を付かれたそんなまさかあなたが。でも一瞬のことで、すぐにいつものあの目つきに戻る。嫌そうな、お前こそそこで何しているともう表情が物語っている実に判りやすい、
「なんだ佐藤」
 佐藤かよ、と言いたかったんでしょうねきっと。私ははい佐藤ですと間の抜けた返事を返しながら、じろじろと見つつざくざくと側に近寄って行く。彼も彼で、嫌そうな顔を崩そうとしない割りに私が近寄って行くのを拒否するようでは無い。隙、のようなものが周辺に漂っている。
 隙?この子に隙?
「何しに付いて来た」
「何持ってんです?それは」
 質問を質問で返すなと呆れたような声音が遠くに聞こえる位、私の目は彼の膝の上にあるそれに驚いて、離れようとしない。
 お弁当箱の中びっしりと、色とりどりのカットフルーツ。
「ピクニックですか?」
「呑気だな」
「私じゃないですよあなたですよ。ここで食べようと思って、持って来たんですか?」
 返事が無い。
「この量、一人で?」
 黙って吹いて来る風に顔をさらして、空を見上げている。

 もう一度、食べたかったとかじゃない。
 あんな思いをもう一度味わいたい訳が無い。
 メロン、バナナ、イチゴにキウイ、アップルパイナップルオレンジにシュガー、コンデンスミルク、チェリー。
 罪は無い。
 これらに罪は無い。

「悲しかったんですね」
「寝言は寝て言え」
「じゃあ、寂しかったんですね」
 うさぎりんごが泣いています。
「集団の中阻害されてひとりぼっち、っていうのは寂しいのが普通です」
「ハ、普通とぼくを一括りに出来ると言うか?」
「言わないですけど」
 現にあなたは辛かったのでしょう。口には出さないが私は核心を持ってそう思えた。だってほら、今日のあなた、隙だらけだ。こんなにじろじろ顔を覗き込んでいるのに何にも言わない。隣に座っているのに身じろぎひとつしない。上の空だ。心が記憶に囚われているんだ。
 隠すように、封じるように、必死で咀嚼され飲み込まれた、
 誰にも喜ばれなかったうさぎりんご。
「寂しいじゃなくて、申し訳なかった」
「え?」
「すまない、と思った、じいや達に。気持ちに応えてあげられなかった自分がな、申し訳ないと」
 楽しい時間を過ごしてくださいと
 願ってくれたのに ぼくは
「凄かったんだぜ、あれは、遠足とかピクニックなんてものじゃない、まるでちょっとしたパーティー用だ。ぼくがそんな風にわいわいやれる訳無いことはわかっているだろうに、期待されてたんだな、願われていたんだな、そう過ごしてくれるようにと」
 ははぁ、それは松下家の坊ちゃまともあろうお方には遠足用の弁当ひとつとっても手抜かりのないものにしなければ、という、別荘番夫婦の見栄的なものもあったんだろうな、と私は、身振り手振りで熱心に説明しているこの坊ちゃまに、ふむふむと相槌を打ちながら考える。聞いて欲しかったんだろうか、誰かに。
「だからその分、辛かったんだ。応えてあげられない自分がな」
 自分の思いを聞いて欲しいと思えるほど、何かが変わったのだろうか、この子も。
 私が裏切り、己が死んだ、あの日から。何かが。
 もしかすれば、私と同じように。
「食べましょうよ、フルーツ。今ここで」
 それ、そのフルーツ。指で膝の上にずっと置かれたままのタッパーを突付いてみる。物凄いしかめ面をして肘で隠すようにずらされる。弁当を隠すなんて小学生みたいじゃないですか。まだ小学生なんだ、あなた。
「せっかく持って来たのでしょ、食べるためにそうやって、……なんなんですかこの傷は」
 10本の指が切り傷だらけだ。しかめ面はいっそうひどくなる。
「作ってくれなんて言えるか」
「わざわざ自分で作ったんでしょ、甘い物お好きじゃないくせに作られたのでしょ、だったら尚更食べないと。なんなんですかこの量は」
 まるで再現だ。
 遠足やピクニックなんてものじゃない、みんなでわいわいやるための、まるでパーティーの。
「お前、うるさいな」
「なんで言ってくれないんですか。一声かければ、皆喜んで集まるでしょうが」
「言えるか、こんなこと」
 お友達みんなに分けてあげて下さいね。
「意味も無いのに、こんなこと、突然言っても仕方無いだろう」
 お友達とみんなで、わいわい楽しく、食べて下さいね。
 たのしいじかんをすごしてください
「……そして、ぼくが作ったのじゃ、どうにも汚くうまくいかない。こんなんじゃ、食べたいなんて到底思えない」
 どうか ねがいを
 坊ちゃま。
「……ははぁ。確かに、ぐちゃぐちゃですね」
 こういうことは不器用なんですね。じろりときつく睨まれる。その顔に、頭をくしゃくしゃなでてあげたくなる。
 いつか出来るかな。祈りを込めるような気持ちで私は。
「あなたに願っていた事は、美味しく食べて欲しいということだったんですよ」

 あなたが食べて、
 美味しいと思って、
 嬉しくなったり、楽しくなったり、
 そういう気持ちに なってくれればと
「それ以外のことを、誰もあなたに望んではいないんですよ。一郎坊ちゃま」
 幸せに、
 幸せになれればいいな、誰もがあなたも
 万人が幸福になれるためのその世界 あなた自身もそこに、どうか含まれて下さい
 色とりどりのフルーツ。罪は無い。
 こんなことばかりを考えている。罪など無い。
 だから楽しく、さあわいわいと
「食べましょう、美味しそうですね」
「……お前さっきぐちゃぐちゃと言ったどの口でそんなことを言うか」



 そのうちみんなが 物語のような口調で佐藤が言う。
 そのうちみんなが ごちそうの匂いをかぎつけて
 ガヤガヤ賑やかに 集まって来るんですよ ほらほら来た来た ぴょんぴょんと
 物言わずいつもあなたを慕ってる、占い杖がスキップのように あなたを目掛けてほら跳び付いた
 後ろからゼエゼエ言いながら全速力で追ってくる 蛙の顔した蛙の男 「メシアこんな所にいらしたんですかさっきから姿が見えないで探して探してややっ佐藤お前なぜここに」
 膝の上のフルーツ見つけて、びっくりした声をあげるんです メシアがお作りになったんですか!
 甘い香りに誘われて、ふくろう女が楽しげに、羽ばたき音を響かせて みつ豆好きの幽霊の女はいつの間にかふらりと背後に立っている にっこり笑って「あたしは甘いものに目が無くてですねぇ」
   わいわいガヤガヤ 賑やかに 騒ぎを聞きつけ別荘番夫婦も鼻ヒゲさえも 「なんか盛り上がってるようじゃねえの」ベルゼブブも? 遠くで家獣の咆哮が聞こえる その気になればサタンだってスフィンクスだって蓬莱島だって
 そんなにたくさんいらねえよ。
 参ったな。
 なんだその光景。
 甘すぎて消化不良起こしそうだぞ。甘ったるい、今時小学生でも見ないような夢。
 まるでファンタジーじゃないか。
 おそまつな大団円のだんらんみたいじゃないか。
 文句を述べるぼくの言葉の端に被せて、聞こえないように佐藤は結んだ。あなたはいい子ですよ。