ド   ル  チ ェ


 



 天井高く、シャンデリアに飛び散った赤い血を見上げている。
 あれは僕の血だ。ずいぶん高く飛んだものだと感心する。
 この部屋のベッドのしつらえ具合は完璧だ。
 深く、沈みこんだまま、放さない。柔らかくくるみ込み締め付けず固定する。手足が悲鳴を上げる程の開放感。切り裂かれている。
 テレビの画面には昨夜起きた殺人事件の報道が映し出されている。
 僕の足元にはウェディング・ドレスを着た女が一人、踊っている。


 テレビのニュース。
『謎の新婚夫婦殺人事件。式を終えたばかりの二人。翌朝このホテルからハネムーンへと旅立つはずだった。豪華ホテルのスゥイートルームで起こった惨劇。二人とも死亡を確認。密室。室内は荒らされた形跡も無く。殺された。犯人は依然として不明。現在閉鎖されたこのホテルで、警察は』


「あたしは可愛い女でした」
 踊りながら、彼女は言う。
 ふんわりと広がった白いレースがくるくると回る。ヴェールが揺れる。幾つも重なったレースのドレープを縁取って、花びらみたいだ。咲いた花が踊っているみたいだ。
「あの人が永遠に愛してくれるような。好みの女になろう、言いつけはきちんと守ろう、側に居られる事それだけが幸せ。一生ついてゆくわ、幸せで幸せでいっぱいだったのでした。」
「それはどれくらい昔の話?」
「かれこれ百年は経ちましたかしら」
 ヴェールの向こうで、彼女はにっこりと微笑んだ。そうだね、口は開けないほうがいいね。
 その歯にはお歯黒がべっとりだね。

「初めから、言ってくだされば良かったのに。」
 宙をあおいで、呆けた無邪気なまなざしで、彼女は桃色の唇を震わせる。
「お前なんかはじめから、愛してなんかいなかったんだって、言ってくだされば良かったのに。」
「傷つけたくなくて、困ったんだろうね」
「逃げ、ですわ」
「逃げ、かな」
「すまない、あなたとはやはり、行けない。好きな女が居るんだ。その女も俺を慕ってくれているんだ。お義父上様の言いつけだから背くことならぬと思っていたけれど。けれども。やっぱり自分を誤魔化す事は出来なかった。許せとは言わぬ、だがどうかあなたは俺の事など忘れて、幸せになってくれ。俺が与えられるそれよりも、千倍も万倍もあなたに与えてあげられる事の出来る、そんな男と幸せになってくれ。どうしてもあなたを選ぶ事の出来なかった俺の、心からの願いだ。
さようなら、俺は行く。」
「凄いね、全部覚えてるんだ」
「彼の言った事なら一語一句。かすかにこぼれた言の葉全て。」
 さらさらさら、ドレスの衣擦れ軽やかに響く。ヴェールを絡ませた両手高く伸ばして、バレリーナみたいに、爪先で。シャンデリアから落ちてくる緩やかな淡い光、白い表面を冷たく、そして柔らかに染め上げる。
 きれいだな。
「だから、殺したんだ」
「出てゆくあの人の後姿を短刀で。切り上げました。驚いて振り返るその喉元も、声が、出てこないように。悲しい言葉が、聞こえないように」
「そして、自分も」
「あの人の居なくなった私はどうしてこの世に存在出来ましょう。泣いて、己の首筋を切り裂いたのです。」
「百年も昔の事だね」
「そうです。あの時ここにあった、お父様があたし達の結婚祝いにと建ててくれた邸宅は、取り壊されて、荒地になって、そうしていつの間にか大きなホテルが建ちました。」
 どうしてそんなにきれいなの。
「その時から君はずっとここに居るんだ」
「はい」
「どうして彼らを殺した?」
「愛し合ったからですわ」
 白くて、透けてて、ふわふわで。昔に読んだ事のある、童話の中の、お姫様みたいだよ。
「あたしの目の前で、お互いを心底大事そうにしっかりと。抱きしめ合って、いたからですわ。」



『あなたはかわいいひとだから、きっと だいじょうぶ』
 ひとりで泣いていたの。
 暗い、ひとりぼっちの片隅で。未来永劫誰にも気付いてもらえない、救われない孤独の中で。ずぅっとずぅっと、うずくまっていたら、
 目の前で愛し合ったの。
 お互いの手足をぎゅっと体に絡ませて。瞳を交わして、甘い声で、
 愛していると
 永遠に一緒だと
 捨てられた女の前で
 あたしは笑う。笑う笑う笑う。あなただったら、ねぇあなたがあたしだったら、一体どうしていた?
 あの二人、あたしが姿を現した時も、あたしがその身を切り裂いた時も、どうなろうと決して離れようとしなかったんです。ぴたりと体をくっつけて、まるで二人でひとつの体のよう。悔しかった。無理矢理引き剥がした。体ばらばらになってしまえ。
 あたしはひとりぼっちなのに、どうしてどこまでも一緒なのよ。肉片ですら重なっているのは何故なのよ。あたしは声を枯らして叫ぶ。どうしてあたしはひとりなの。
 愛する人を殺した報いですか。目の前で恋人達の結ばれる様を見せ付けられる。もう二度と絶対に手に入れられないものを見せられる。これがあたしへの罰ですか。
 狂った。
 笑う。



「僕は、どうしてこの部屋に入れてもらえたのかな」
 血の染みひとつ付いていない純白のレースが揺れている。
「警察は皆、弾き飛ばされて二度と近付けなかったっていうのに」
「知りません。あなたはひとりで、そこのドアを開けて、中に、入って来たんですわ」

「あなたは 中に 入ってきた初めてのひと ですわ」

「だったらもっと優しく、歓迎して欲しかったな」
 両足首は筋を切られ、ぴくりとも動かずここに二つ横たわっているだけ。
 両手首は勢い良く血を噴出した。栓を抜かれたシャンパンみたいに、天井向かって高らかに、祝うみたいに飛び散った。
 お会いできた記念に。真っ赤な泡で乾杯。
 僕の全身は赤く汚れて、ふかふかの上質のベッドの上で。半身起こして口だけ動く、そのざまが。
 楽しそうに微笑み光る彼女の、目の中、捕らえられているようで。
「いやです。だって帰さない。」
「入った瞬間、こんなことになるとは思わなかったよ。君は凄いね」
「あなたは、あたしの張った膜を簡単に突き破って入ってきた唯一のひと。奥に居るあたしに気付いてくれた。だから帰さない。ここに居てくださいませ。」
 だからほら、花嫁衣裳だ。愛しい人を殺した夜に、着ていた白無垢は血に染まった。あんな思いはもう嫌だと脱ぎ捨てた。ほら、殺された新婚初夜に、あの花嫁が着ていた衣装。真っ白にきれいなふわりふわり舞う広がる。
 新しいドレスで、あたし結婚しますの。
 テレビ見てほら、月が映っているよ。月が空に昇ったよ。まぁるく満ちた、満月よ。
 はちみつ月夜よ。
 ハネムーンよ。
「僕に一緒に居て欲しいっていうの?」
「そうです。」
「悪い冗談だ。僕は君を止めに来たんだ。人間を殺すのは良くない。君がそれを、理解出来ないのなら、止めなくちゃ」
「あなたに、できるの?」
「役割だから」
「笑ってるじゃない」
 次の瞬間。胸に、ぷつという音がして、二つ目のボタンが飛んでいった。ボタンを吹き飛ばしたのは血液で、僕の胸の真ん中から凄い勢いで飛び出して、アーチを描いて部屋中に噴射する。僕は しばし口を開きっぱなしで見惚れる。きれいだな。あんまり赤くて、激しくて、きれいだな。
 顔の片側、髪の毛の下に、隠れている眼窩から。どろり、とあふれ、こぼれ落ちて来た赤いもの。唇の先にしたたる。どろり。むせ返る匂い。甘い。喉の奥に絡みつくほど甘い。
 甘すぎて窒息してしまいそう。
「ね。笑っていますわ」
 困った事に僕は今、このままどうなってしまってもいいかな なんて思っているんだ。



「君にひとつ、聞きたいんだけれど」
 彼女はとっても上機嫌でハイで、純白のヴェールを両手で掲げておどけている。
 足がもつれて、引っくり返る。巨大なベッドの足元に仰向けに転がる。
 フリルが弧を描いて、赤い室内に満開に咲いた。僕は可笑しくて笑いながら、彼女のフリルに触れたくて、手を伸ばす。体中がきしみ悲鳴じみた痛みが全身を貫いている。眼窩からしたたり続ける甘い赤。吐きそうだ。微笑んで彼女は、フリルを引く。
「君はどうして、近寄ろうとしないの」
 微笑を投げかけたまま決して触れては来ない。
「ここに居て、と言いながら、ずっと距離を保つんだね」
 純白のままで汚れないウェディング・ドレス
「触れられるのが、怖いのかい?」
 フリル。微笑を貼り付けたまま静止する。


「触れられたことは、無かったの?」

 純白が震える。今にも泣き出しそうな顔色で。爆発してしまいそうなのを、こらえている。
「・・・・・・触れてくれる前に、去ってゆきましたもの」
「男のひと が、怖いのかな」
 わずかに身を硬くする。どこか痛いような、痛みをこらえているようなそんな顔。
「だからこうして、近寄らないのかな。切りつけて、動けないようにして、ここに居てくれと言いながらの、その、矛盾は」

「怖いです」
 ぽろり。その時、瞳から涙。
 顔を上げて、きっぱりと僕を見据えて、はっきりと告げるその表情の上に、
 幾つも幾つも、こぼれて、あふれ出す。
「どこかへ行ってしまう冷たさと、優しい言葉で包んでくれた温かさを。思い出すたび頭の中は混乱して、理解できないのです。怖いのです」

「だからあたしは永遠に知らないまんまです」



 やめて、やめて、さわるのやめて。
 鈍い痛みが騒いでいる。
 彼女、両手に顔をうずめて、怯える子供のよう。僕の、歪んだ視界の中では、僕の手のひらはまるで彼女に被さる巨大な手のようだ。手のひらの化物が彼女を脅かしているみたいだ。ヴェールに重ねる。とんとんとノックする。柔らかに突付く。彼女は小さくいやいやをして、かぶりを振る。細かに震えている。僕は触ってなどいないよ。
 やめて、触ってこようとしないで。
 つるつるとヴェールの表層を伝って、薬指で奥へ、たくし上げる。彼女はびくりと顔を上げ、その拍子に首が伸びる。頭が倍になる。両手両足がわなわなと膨れる。
 なんだ、よろこんでくれるんじゃないか。
 彼女は何か言いたげに、口を開いて、でも、言わない。
 曲げた薬指を、ヴェールの奥へ。くるりとずらして、レースを撫ぜる。彼女はぱくぱくと口を動かして、小刻みに震え、顔を赤くして、首を振って。 ちがう 何が違うの 触るなんてちがう
 だから僕は触ってなんかいないじゃないか。そんなに離れてちゃ、触る事なんて出来ないよ。
 彼女キリと奥歯を噛んで、呟く。いじわる。
 笑ってるわ、いじわる。
 目の中で巨大な手のひらは、フリルの中心をひらひらと泳いだ。途中、くい、と、つかみ上げる。息の塊を吐き出して、彼女はどんどん大きくなる。ずんずん体が伸びてゆく。頭が天井につかえ、苦しそうに僕を見下ろした。うるんでいるまなざし。真摯なまなざし。
 振り、だよ。真似、だよ。泣かないで。
 あなた笑っていますわ、馬鹿にして。
 違うよ。君が、笑えばいいと思った。
 まんまるい瞳は涙を溜めて、はぁはぁと息は荒い。ぐい、とまたひとつ、体は伸びた。天井につかえた体を折って、ついにまっすぐにこちらを向いた。
 もう少しでほんとうに、手は、届きそう。
「よろこんで欲しいな、と、思ったんだ」

 揺れているフリルの、一番奥。中指つい、と、突っつけば、
 こらえ切れずに、甘い声。
「あ、は。」

 右肩裂けて、赤く甘い血。祝うみたいに、飛び散った。



 その瞬間、獣の唸り声が響き渡ったんだ。
 ゴォ、と低いうねりの様な。空気がざわつく。天井の一角に、暗い、紫色の、
 紫煙の渦が現れ、
 がばりと一気に、二つに裂け、そこから目を血走らせらんらんと光らせた、少女の面影を宿す獣が、
 耳まで裂けた口にぞっくりと並ぶ牙をむき出して、物凄い咆哮を上げながら、
 まっすぐに、巨大な女の喉笛へ、齧り付いた。
 彼女は、絶叫する。
 齧り付かれたその箇所から、ザラッと砂がこぼれ落ちるみたいに。ひび割れ、崩れ、瞬きよりも早く霧散してゆく。
 同時にこちらも、ザァザァと、崩壊してゆく室内。剥がれ落ち残されたあとは、ひどく真っ白でまぶしい。堪え切れず目を閉じる直後、目の中に残った、女の顔は、
 どっちだったか。
 流し目をくれていた。
 ひどく愛しい。

 にくらしい。






 おきてください、起きて下さいよ。
 ぺちぺちと頬を叩く無骨な手に、目を覚ます。
 あんたひどいケガをしてますなぁ。大丈夫です?中で何があったんです?
 室内は白々と明るく、沢山の警官隊が、ベッドの周りを歩き回っている。
 シャンデリアは灯っていない。
 さっきやっと扉が開いたんです。中じゃあんたが倒れちゃってるし。えらいケガですなぁ、やっぱり、人間じゃないものの仕業だったんですか。
 救急車呼びますか
 つかまえたんですか?
 ・・・・・・つかまえられませんでした。
 やっぱりなぁ。やっつけちゃった、ってやつですかぁ。何て報告したもんかなぁ。
 人の良さそうな捜査官の男は、頭を掻き、アゴを掻いて、しわくちゃに顔をしかめている。


 ・・・・・・月。
 は?
 今、何時ですか。
 時間ですか、あんたが入って行ってから、30分程度しか経っとりませんよ。ほら、今、夕方になるところですわ。雨が降り始めたから、少々暗くなって来ましたね。
 そうですか。
 そうですかってあんた、そのケガで何動いてんですか、どこ行くんですか。
 帰ります。扉は開いたし、ここはもう安全だ。充分に捜査が出来ますよ。
 帰るって家へ?いや、その体でよく動けるもんだ。大丈夫ですか。あ、ちょっと待って下さいよ住所を。自宅へ感謝状を。
 いりませんよ。
 上に言われてんですよう。こっちも助けられましたし。ようやく仕事が出来る。
 いりませんよ。

 あっけない、果て方だな。



 もういっちゃうの?
 体中に、引っかき傷付けて。
 もういくの?
 中途半端に、触らせといて。
 外に出ると、土砂降りだ。降り注いでくる雨水が、血を洗い流す。傷跡に滲みこんで、じわりと疼く。
 いっちゃった。
 もう会えないよ。
 さようなら。

 あの時齧り付かれたのは、僕だったのかも 知れないな。




「ほら見て 月よ」

 耳元にかすかに、声が響く。

「月が空に 昇ったよ。」
 あぁ本当だ。
 どよりと低く、垂れ込めた雨雲のはるか上空に、ぽっかりと浮かぶ。
 まぁるく満ちた、満月よ。
 白くて、透けてて、清らかで。清楚に装い、輝いている。

 蜜月よ。
 ねっとりと糸を引く暗い淀んだ情念の隙間から、冷たく透き通った液が降る。


 甘露。