煙 毒







 あなたの部屋に、あなたが居なかった。


 いつものように尋ねて行くと、あなたの家には誰も居なかった。
 お土産に抱えて来たお菓子の包み、膝に置いて溜め息をつく。
 甘いお菓子、だったのよ。
 いつものように、薄暗い室内。からっぽのせいでいつもよりいっそう暗く、寒々しく見える。きれいに整頓されている家具は、明り取りからの逆光に照らされ黒ずんで、違う顔。いつもここにあったあれ、に見えない。全然違う。とてもそらぞらしい、他人の面持。
 空気まで固まっているみたいに感じる。
 寒々しい空しさに、胸につかえる息苦しさに、圧し掛かられているように重い、重く、感じて、あたしは細く呼吸を。吸って、吐き出す。
 何処行っちゃったの。
 なんにも言わないでさ。
 勝手に押しかけているのはあたしだけれど。いつも、そう、あたしだけれど。不在、って、悲しいな。いつもおんなじでここに居てくれればいいのに。叶う訳の無い願いを口に出す、いつもずっとここに、居てくれればいいのに。
 絶対何処にも行かないの。
 外は風が強い。緩んだ建付けのわずかに傾いだ隙間から、ひゅうひゅう冷たく吹き込んでくる。お菓子の包みを滑り落として、あたしは膝を抱える。短く刈り上げたうなじの、細かな産毛が震えるのが分かった。差し込む薄い白けた光が、あたしのつま先を照らすのが疎ましくて、引く。膝をぎゅうぎゅうと体に押し付けて、まるで、誰かを、強く抱きしめているようなそんな、気分になる。
 あなたが居ないのが、嫌なの。
 あなたに会えないのが、さみしいの。
 あたしの知らない所で、あなたは今、何をしているんだろう。
 どうして今、あたしはあなたと一緒に居られないんだろう?
 色んな事が間違っている、囚われて、目だけがぼんやりと薄明かりに漂っている。
 居ない居ないどうしてよ
 ずぅっと居てよ、この場所、に。




 部屋の隅にぽつんと、落ちている物がある。
 忘れて行っちゃったような、落として行っちゃったような、四角い小箱が転がっている。
 ずるずると膝を擦って近づいてみるとそれは煙草の箱で、
 角がへこんでたり、よれたりしていて、いつもあなたがポケットに突っ込んでいるそれ、だった。
 指先で触れた、その一点からもほのかにまだあったかいような、感覚が、錯覚が、じわりと沁みて。
 あたしはそれを両手で包む。封を切ったばかりで、中はほとんど減っていない。
 鼻を近づけると、苦い葉っぱの匂い。
 あなたの匂いはねいい匂いだよ。
 透き通っていてしんとして、冷たく立ち昇る感じ、でも甘くて柔らかいの。柔らかいものがゆっくり広がっていくの。そんな感じでね、
 少しだけ苦い。
 その苦さを、あたしは確かにこの煙草の中に感じて、思わず唇を噛んだ。匂いって不思議、記憶を呼ぶ。
 衣擦れの音や質感、硬くて冷たかった腕の感触、髪の毛が揺れた首元、背中、沢山、沢山ばらばらな形であざやかに目の中に映る。
 生々しくて、胸が痛い。
 鼻の奥がツンとする。涙出そう。
 この匂いをさせる人、今あたしの傍に居ない。
 あの腕つかんで、引き寄せて、この鼻を押し付けたいと思った。そうして滑って胸の骨の間にも。強く。この鼻をめりこませてしまいたい外れない位。でも出来ないよ。ふとした瞬間にあたしはいつもこの衝動にかられるの。でもそんなことしたらあなたきっと逃げる。音も無く気配さえ感じさせず、あなたするりと逃げていってしまう。
 好きだよ 大事だよ 僕がきっと守る
 普通なら愛の告白なのに。
 そこには、あたしの欲しいものは、含まれていません。
 欠けてるの。だからいっつも、悲しくなるの。結局あたしはあなたの愛している、世界の中の一部分でしかないから。
 泣いちゃったら駄目だなぁ、と思った。今泣いたら惨めになって、あたしあなたに会った時、いつもみたいに、笑えないなぁって思った。それは怖いから。あなたが遠くなる。今よりもっと遠くなる。
 笑えないあたしを、あなたは必要とするかしら。
 試してみたい気もするけど。もし本当に居なくなっちゃったとしたらどうしたらいいの、怖いよ。
 まつ毛の間に涙を溜めて、あたしは天井を見上げながらぱたりと仰向けに倒れた。両手で握り締めるあなたの煙草、ふわりとこぼれる苦い匂い。
 あぁ、会いたいなぁ。
 あなたのことばかり考えてどうかしてしまいそうだ。
 さみしさに酔って、眩暈が起こる。ぐらぐらわんわん広がって、螺旋を描いて旋毛から宙に抜けて行く。
 信じられる、何か。この胸を満たす、ちいさいたったひとつ。
 それさえ貰えたらいいのに。



 しゅう、と滑って、じじり、と燃える。
 ほの暗い一角にマッチの火が灯る。
 ぼんやりと揺れる灯色の光の陰に、暗がりはわずかに身を縮めて、沈んだ。あたしはゆっくりと灯火を、唇にくわえた煙草の先に近づける。
 ほんの少し、焦がして。手元に残る火を振り消す。細い煙が先端から立ち昇る。
 少しだけ、怖かった。吸った事無いから。
 わずかにじりじりといぶった煙草の葉は、細くてゆるい煙を昇らせる。集めるように、吸い込んだ。むせ返らないようにゆっくり、そぅっと。  吐き出したりすることないように。
 これがあなたの知る味なんだと。
 あなたが吸い込んで、体中に染み込ませているものなんだと。
 やっぱり全然美味しくない。眉間にぎゅうっとシワを刻んで、知らない内に嫌な顔をしている。煙たくて苦いだけ。きもちわるい。でもあたしの手足は今あんまりさみしくて痺れてしまっているから、どうでもいい。黒い毒が体中に回っても何てことない。あなたが汚染されているなら。
 あたしもおんなじがいい。
 あなたとおんなじがいいよ。
 そう、吸ってたよね。夕暮れ窓辺で、明け方舗道で。少しうつむいて火を点ける。
 深く吸いつけてふぅと吐き出す時の、あの横顔、見えない表情、口元、指先、淡くかすんで夢みたいにぐるぐる、頭の中、回る。そう、この匂いなの。この匂いが漂っていたよ。
 どんなにあなたを思っても、
 どれほどあなたの傍に居ても、
 決して破れない壁がある。
 居たい、触れたい、とても欲しい、欲しいものはひとつだけ それでも。
 あなたは結局ひとりで遠くに行こうとしてるんだ いつでも。
 それなら。
 それならあたしはあなたになりたい。
 あたしは煙を吸い続ける。煙草の先端は赤く染まり、伸びた灰がぽろりと落ちた。
 居られないなら、あなたになりたい。
 同じになりたい。同じがいい。あなたの中で回る煙、あたしの中でも回ればいい。
 ひとりにしないで。
 ひとりなんていらない。
 その瞬間、頭の中で、何かのぽん、と、はじけた音が響いて、
 二つの眼球の裏から、しゅうと噴出して来た。
 幻みたいな。
 あなたがここに居るような、幻覚見たいな。





 イーアルサンスゥ  正気の手品
 小人の道化師がとことこと歩いて来る。あたしの目の前で、ビロードの赤い布、腰に巻いて「ハイッ」と宙返り。
 両足両肩に乗っかって、腰から上が入れ替わる。見事に逆になりました。
 駄目よそんなのいらないもん。あたしが急いで首を振ると、しかめっ面で歯をむき出して、オレンジの煙でぽんっ!と消えた。跡に咲いたのは芥子の花。
 あたしは煙草を2本くわえる。指が痺れて上手く取り出せない。
 大きなオレンジの花びらの陰からずるん、と、逆さまにぶら下がって顔を出してきた親指サイズのお姫さま
「どうして泣いているの?」
 泣いてないよ 泣いたらあの人困るもん
「報われない恋よねぇ」
 一生報われなくてももうそれでもいい あの人会いたい あのひと出して
「肺に映るわよ 肺をごらんなさい」
 ふと見ると、あたしの胸の所はピカピカのガラス板だ。ひっくり返って長い髪を垂らした親指お姫さま 可笑しそうに 映って 笑ってる
「吸い込みなさいな思い切り 念を込めてありったけ」
 唇の先でいぶる火は、じりじりと焼け付いて加減を知らない。程度もわかんない。
 芥子の花、あたしが握る前に散った。ぽんと音立てて散った。
 ふわふわ飛んでる、毒々しい紫色の花粉。花粉が飛んでる。
 頭の中おかしい。何か外れちゃったみたい。
 毒が体にまわったんだ。変な夢しかもう見れないかな。
 胸のガラス板はもやもや漂う煙みたいな花粉の飛しょうを映すだけ。
 もう一本くわえる。3本目だ。火を点ける。大きくぐらりと世界が揺れる。揺れたのはあたし。あぁ、3本目って、あたし読んだ事あるよ。
 何処かで絵本を。
 3本目には願いが、会いたい人が。
 もやもや漂う紫が、ぐにゃりと歪んで渦になり、あたしの肺から飛び出した。



 あぁぼんやり見える。
 何処? でもそこに居る。
 会いたかったあなたがそこに居る。


 あたしはあたしの肺から飛び出した紫の渦に引きずり込まれて、そこに映ってるあなたを見てるんだ。
 あたしの中?じゃああたしの体はどうしてるの 今あなたを見てるあたしって何?
 ふとよぎってもぼやけた煙に邪魔されて何もしっかりつかめない。つかんでいられない。
 あなたは今、知らないお部屋で、ケガをして横たわってにやにや、唇を薄く引いて笑っている。


 ケガしているの、でも笑っている。
 あなたの上には誰かが居る。
 誰居るの、女の人だ。女の人が横たわるあなたの上に、両手広げて、被さろうとしているんだ。
 体を大きく大きく広げて、あなたにがばりと被さろうとしている。
 あなたはそれをじっと見つめて、何だかにやにや笑ったままで、肩の所が新しく裂けて真っ赤な血が噴出した。体のあちこちを切らせて血を流させて、あなたは笑っている。目の前の巨大に広がる女から目を逸らさず、
 笑っている。
 あたしはまなこを見開いた。
 首筋の毛がぞわあと音を立て、髪の毛もろとも逆立った。
 口の端が裂ける。ぱきぱきと牙がむき出しになる。両指の爪が反り返り、鋭く尖り伸びてゆき、瞳はけだもののそれになって、呪いの咆哮を上げる。
 傷つけたな。
 よくも傷つけたな。
 あたしの好きなあの人の血を流したな。
 唸り声を上げて躍り上がり、あたしの体は突進した。パキリとガラス板の割れる音がして、次の瞬間には目前に憎い女の顔がある。ひどく驚いたような顔をしている。あたしは叫んで、そのまま女の首筋に齧り付いた。
 肉に歯のめり込む感触。口の中に、流れる鉄じみた味。感覚の、遠くなるこの味。
 本物だ。
 本物なら喰い千切ってやる。
 あたしの好きなあのひとの血を流した
 あのひとを傷つけた
 許さない許さない許さない
 あのひとと会ってた
 あたし居ないのにあのひとと会った
 想い恋しくてどうかしてしまいそうに苦しかった最中に
 会ったな
 傷つけたな
 笑いかけてもらったな

 あたしが会えないで居たその時に!



 悲鳴が轟き、女の体は、砂みたいに崩れた。
 同時にあたしもどろりざらざら、一気に溶けるみたいに、崩れた。
 いやだ、と感じて、あなたを探す。それより早く真っ暗に崩れ落ちてしまう。あたしの体は何かをする前に、何も出来ないで、粉々になってしまった。
 真っ暗でもう見えない。
 あなたの姿がもう見えない。
 初めてあたしは泣き出した。



 アンドゥトロワ  魔法の数字
 みっつめからは はじまりにもどるよ
「何を一番望んでたの?」
「願い求めるなら、強さを身に付けるべきだねおじょうちゃん。」






 鳥の声がする。
 サーサー柔らかい音が降り注いでいる。
 雨だ、とうとう降って来たんだ。
 今にも降り出しそうだったもの。
 そう思うと同時に、目を開けた。
 眠っていたの。
 家の外では、柔らかい音を立て、雨が一面、降りしきっている。


 入り口の所にあなたが立ってて、こっちを見ている。


 あっ、と声を立てて、名前を呼ぼうとしたら、ぼっと赤く頬が染まった。
 え、何、どうしたの、何でこんなに恥ずかしいの。
 何か夢に出てきたような気がする。
 それからあたしは、自分の状態に気が付いて、今度は真っ青に顔色を変えた。
 体中に染み付いた匂い、煙草の匂い、
 あなたの煙草を吸い散らかして、その中で眠っちゃったんだ。


 あなたは入り口に突っ立ったまんまで、黙って、じーっと、覗き込むみたいにあたしを見ている。

 ほんとに、覗いてるみたいだ。いつもある笑顔がそこに貼り付いていないよ
 なにを、思って そんな顔しているの


 入り口のへりに片手をかけて、首を横に傾けて、なんにも言わない。
 何か言いたそうな何か思ってそうな なんでなんにも言わないのよ呆れてるの あぁどうしよう顔赤くなったり青くなったり あたしどうしよう なんにも言えないよ
 よく見るとあなたの体のあちこちには傷が付いている。
 さっき出来たばかりのように、生々しく血の滲んでいる跡もある。
 また何処かで戦ってきたの、恐怖と不安がこみ上げて、あたしが声を出そうとしたその時。
 ふいっ、と、大股で部屋の中に入って来て、ちょっとびっくりする位珍しくすたすた大股で歩いて来て、
 あたしの前に片足を付き、じっとあたしの顔を見て、
 やっぱりなんにも言わないままで、
 あなたは手を伸ばして、
 あたしの頭の天辺から頬まで、するりと一回だけ、撫でた。