アリラン





 

 ねぇ、ねぇ、あなた。そこからいったい、何を見ているの?
 夜、夜、暗闇。
 永遠に続く夜だ。



 わたしの頭の上にはゆらゆらと揺らめくなめらかで、暗い、びろうどのような夜の膜があって、辺りの色は少しずつ変わってゆきながらどこまでも深い、よるのあお。
 天上高くびっしりと星屑。宝石箱を引っくり返したみたいに一面のまたたき。びろうどの揺らめきに包まれて、ふるふると透けた震える光がわたしの上に落ちてくる。揺らめいて白く柔らかな、いくつもいくつものやさしい光。
 きれい。あんまりきれいで、めまいがしてる。くらくら、酔っ払ってるみたいなのよね。
 どぶりと深く沈みこむ、この夜の深さ。沈む。きらきらまばゆい星の海。ゆらゆらたゆたうびろうどは遠く遠く何処までも広がっていて、ちょっと、甘すぎるくらいに、完璧な。手足が痺れて、動けないのも、出来すぎなくらい夢みたいな。
 遠くなるあなたの背中おもいます。
 わたしを捨てて行ってしまった、あなたの姿をおもいます。
 あなたは今頃きっと、ひと気の絶えた暗い道を歩いている。
 同じように空には一面星が輝いていて、
 きらきら、道端の小石ですら光を受け、ぼうと青く燃えるように発光しているのだけど、あなたはその美しさに目もくれず、まっすぐ、ざくざく、歩いてるの。
 凛としたまなざしで。前だけ向いてて。きりと強いその瞳で。後ろは一度も振り返らず。
 足跡が荒れ果てた道の上に、点々と刻まれているだけ。
 何処へ行くのか、知る事は出来ない。
 夜露に濡れた草が寂しくその足にすがりつく。ねぇ歩みを止めてよ、少しでいいから佇んでよ、何も見なかったことにどうしてしてしまえるの、そんな簡単に行ってしまえるようなものだったの
 振り払うでしょう。あなたは、ちらと一瞥をくれることもせず、夜露を蹴り散らして草を踏みしだくでしょう。そうして、自分の足が濡れてることにも気付かずに、ざくざく道を、まっすぐに進んで行ってしまうんでしょう。
 そういう人だった。そうだったわ。
 でないとこっちが救われない。
 くぅ、と目を細めた。知らずの内に口の端が歪んだ。開いた隙間から、とろりと濃い夜気が忍び込んでくる。なんだか痺れて、上手く体が動かない。とろりの夜気が頭の芯まで浸かってて、ぼやりぼやりとしか、ものごと、思えないの。ふぅと笑うと体中の骨がきしんだ。その音は、胸の中に響く、きゅうと鳴るような、喉元に詰まるこみ上げる感じ。
 甘いなぁ。
 痺れる体。胸につかえる、甘い痛み。
 甘く 痺れて 動けないような  力なくただ 笑えてくるような
 行ってしまった。あの人とうとう行ってしまった。
 予感なんて無かったわ。
 いつもいつも、思っていただけよ。
 あなたのその持ち前の、妥協を許さない頑なな正義思想が、
 いつかこういう終わりをもたらすはず、って、ねぇわたしは思っていました。
 こうしなくちゃいけないんだ!って、決めた瞬間のあなたの表情、わたし容易に想像できるわ。
 わたし、あなたと常に居た。あなたにくっついてまとわりついてへばりついて
 いつもあなたの目の届くように、いやでも視界に入るように、あなたがわたしにかまけてばかりになりますように
 あなたに守ってもらいたかった。
 あなたが守ってくれる存在で居ようとしました。
 何も持たない無力さを切り札に。あなたの求めた人間との「友好」を術に。かなり真剣だったわよ、いつもいっしょにいるために
 何か力があったなら、あなたと共に戦える存在であったなら、
 あなたは多分わたしのこと、見向きもしなかったに違いない。
 〈きみはふつうのにんげんだからね。だからぼくがまもってあげる。〉
 背中が好きだったの わたしの前に立って、目の前の悪夢から見えなくなるように、両手を広げて庇う。その後姿がとても好きだった。瞼に浮かぶ。手を伸ばせば、その肩につかまれそうな気がする。ほら、その肩、そのぞっとするくらい尖った気迫。絶対に守ってもらえる、そう信じられる力強さが大好きだった。今だってちゃんとここに居るような気がする。もうあの だいじょうぶ が聞けないなんて嘘だと思う。こんなのって
 ゆめだと思う。助けに来てよ。
 おしまいなんて、うそでしょう。
 わたしだって、
 あなたのそばに、いたかった。
 青い闇は水面のようにたわみ、光の粉をまぶしてゆらりゆらり遠く広がり続けているみたいだった。びろうどの膜の端は今にも体に触れそうなほど大きく、揺らいで、傾いで。淡い陰を作る。さざ波に似た細い線が幾つも落ちて、体の上を行ったり来たり。きれいねぇ。
 きれいだわぁ。
 何の役にも立たないものが、いつまでも傍に居ちゃいけない
 結局世界は違うんだ、深入りしすぎて、破滅をもたらす。
 きみには帰る場所があって、成長していくさだめであって、何よりこちらに執着する道理はない―――
 所詮、普通の人間だった、きみの存在は―――
 笑わせる。
 何か力でも持てというのか、笑わせる。
 永遠に続けばよかったわ。
 永遠に続けるつもりだったわ。
 わたしあなたが思うよりずっと、ずっとあなたが好きなのよ。
 そうしてこんな終わり方をされて、きっと一生忘れない。
 だいすき。いっしょううらんでやる。
 青い夜。甘く痺れた青い夜。
 荒れ果てた寂しい道を一人ざくざくと、遠く、どこまでも歩いてゆくあなたの姿。
 ずんずんと遠ざかるあの、はっきりと目の裏に焼きついているあの、触れる事の出来ないあの、背中を、想って。震える呼吸が、くっくっと、はっきりと意志を持った笑い声に変わる。それならその足折れるがいいわ、って。
 わたしを置いて行ってしまうのなら、
 今にもその足折れてしまうといい。きっと折れるといい。
 あなたは痛みにわずかに声を上げ、
 がくりと前のめりに倒れ、冷たい地面に手を付き、横顔、くっと、歪めるのね。
 その瞬間ほんのわずかでも。わたしの、ことが、心の内によぎって。
 どうしてわたしを置いて行くの。無かった事にするのなんて許さないわ。
 遠くならないで。歩みを止めて。行かないで。
 痛みで歩けなくなるといい。少しでも、知るといい。
 行かないで。どうか遠くならないで。どうか、置いて、行かないで。
 滑っこい膜が、肌を撫でて冷たく震えた。そうねほんとうに。永遠に、続いているみたいな、夜よねぇ。
 踊ってるみたいね。唄ってるみたいね。さながら去り行く夜祭ね。
 たわんでゆるんでなめらかな、どこまでも広がリ続ける御神輿が、わたしを乗せて、あなたから遠ざけて、きらきらゆらゆら大騒ぎしながら二度と会えない所まで連れて行ってしまうの。びっしりと輝く星屑の海。涙なんか流せないくらいににぎやかで。なんてひどい仕打ち。泣かせもしない。甘くただ美しく、そのまま忘れて、過ぎ去ってゆけよと
 ざくざく歩き続けてゆくあなた。きっとその頭上にも降り注いでいる満天の星の輝き。泣いてるの。あなた少しでも泣いてるの。泣くくらいなら去るなと、行くなと、いいえあなたが泣くはずは無い。それならわたしも泣かないわ。泣かないのは笑っているのはこの夜の仕業じゃない。こうと決めたわたしの意志です。
 今、何を思っているの?
 あなたも、わたしも、
 これからどんなに辛くても、あの、日々は。
 あのときいっしょにすごしたいくつもの日々は。
 死んでしまいたくなったとしても、それだけは。変わらず残る足枷でしょう?
 そう信じて歯を食いしばるけど
 でももう二度とあの背中を見ることは出来ない。
 痺れて動かない体。吐く息は甘く、縷々と震えた。
 物語がおしまいになったゆめの夜。
 最後にあなたの望んだ事
 絶対叶えてやるもんか
 絶対に忘れないわ
 少女時代の心の糧になどしてあげない
 これでおしまいにするにしては
 あまりにも甘くて、浮かれてて、きれいなきれいな残酷な夜。
 酔わされて動けない。
 きっともう二度と動けない。
 ねぇ、
 一方的に眠らせないで。
 ほんとにあなたは、
 勝手よね。
 そうよあなた、そういう人だった。
 初めて会った時からずっと。
 だいすき。いっしょううらんでやる。
 だいすき。
 ねぇだいすきよ。

 わたしがいっしょううらんでやれば、あなたはわたしを忘れないかしら。






 あなたが。
 もしいつか、すべてに破れ、絶望して、一歩も進む事が出来なくなって。
 今日みたいな青い甘い夜の下、星明りに、倒れこむようなことがあるなら。
 傷ついてボロボロの心と体、打ちのめされて、帰る場所も無くしていて、
 痺れて動かない指先を震わせて。
 昔に呼んだことのある名前を、
 何度も何度も呼んだことのあるこの名前を、
 呼んでくれたらいいわ。

 薄紅みたいに微笑んで、
 わたしは膝枕を。
 ね、
 ぼうや。