6月6日 (雨)
 
 学会からの帰り道、夜11時頃、屋外便所の入り口に奇怪な少年を発見する。
 がくりと頭を垂れ両手両足を投げ出し、座り込んで、ぴくりとも動かない。不安に駆られて声をかけた。「君、どうかしたのかい」「具合でも悪いのかい」
 かけられた言葉に、ふ、と、肩が震え、
 少年がゆっくりと顔を上げる。ゆっくりと、鈍い動作で。
 どろんと虚ろで、ぎょろりと大きな目が、顔を隠す程に長い前髪の隙間から私を見た。
 片目。
「いえ」
(今にして思えば、どうしてこの時、声などかけてしまったのか)
「どうもしない、ですねぇ。」
 少年の頬には殴られた痕跡がある。腫れ、口中を切って血が滲んでいる。服はあちこち擦り切れて薄汚れ、半ズボンから覗く足には打ち身の痕が見て取れる。警察に行こうか、先に病院か、迷う私の言葉を無視して、
「親を探しているんですよ」
「僕の父さん。誰かに連れて行かれてしまった。ご存知ありませんか」
 そう呟くと低く笑って、立ち上がり、戸惑う私を尻目に、散らばった下駄を片手に下げて、ふらふらよろけながら脇を通り過ぎた。
 薄汚れた学童服、黒と黄色の縞模様のちゃんちゃんこ。
 しとしと雨音が絶え間なく続いている。闇も光もその中で曖昧に形を失っている。雨筋の向こうで、不吉な色模様の後姿がちらちら見え隠れしつつ、ふらりふらり遠ざかるのを見ていた。陰火のようだと思った。





 6月7日 (雨曇)

 面白いものを手に入れたよ、君。
 この世に二つと無いかも知れない新種の発見だ。是非とも見て貰いたい。
 珍しく高揚した面持ちの同僚に連れられて、研究室へと足を運ぶ。
 歪んだ笑みを噛み殺しながら持ってきた、ガラスケースの中にある物体は、
 目玉に胴体を付け、手足を生やした代物。
「ちゃちな作り物で君をからかおうなんてつもりはないよ。私が君相手にそんなつまらんことなどするものか。これはね、生きているんだ。生物なのだよ。」
 虫ピンで留めてある、手足の4ヶ所には赤いものが付着している。大きな眼球は全体的に赤黒く濁って、瞳の部分はぼやりと白濁している。
「疑うのか、では、これでどうだ、そら」
 ピンセットの尖った先端を、眼球の真中にぐいと突くと、「きゃあああああ」
 耳を穿つ甲高い裏返った悲鳴。
「生きているだろう、そら、興味深いだろう、面白いだろう」
 口は何処にあるのだ答えろと、同僚は幾度もピンで突く。そのたびに奇妙な甲高い悲鳴がこちらの耳を刺す鼓膜が震える。気持ち悪い、
「面白いだろう、面白いと言っていいぞ」
 可哀相だ、
「もういいとは何だね、満足しないのかね」
 何に満足しろというのだ?
「君はいつでもそうだね、あさっての方を向いて息を吐く事ばかりをするよね。だがもう譲歩するのは止めたよ。私はこれを調べてやる。もう君のことは忘れてしまった。いずれ報告の場を設けて、君が息の出来なくなるような卑屈な下目使いで見上げるしかないような徹頭徹尾完璧な論文を唱えてやるさ、これの、これの、これの」
 ピンセットの持ち手で言葉調子に合わせ、何度も目玉を殴打しながら、
 途切れ途切れに悲鳴が壊れかけの玩具みたいに、網膜は真紅に変わって、ヒィ、ヒィ、ヒィ、
「これのね!」
 ヒ!


 同僚の目玉も気味の悪いほど充血していて、気持ちが悪い。居たたまれない。赤黒く閉塞した室内から逃げ出す。




 
 墓場に落ちてた子供の作文
(きみがわるいから がっこうでは よめません)
『ぼくのとうさん』
 いつも傍に一番近くに居てくれる父さん。

 僕を思ってくれるその念の深さはきっと世界で一番だ。例え体が腐り朽ちようとも我が子を思うその一念だけで、死んだはずのその体の一部にまで生の火を灯すはずだもの。
 とうさんとうさん そんなあなたが居なければ、僕はとっても ダメなのです
 いつも僕の傍に居て、同じ目線でものを見て、
 僕の顔のすぐ近くで喋り叫んで出入りして、
 これは僕の見たものかあなたの見ていたものなのか、これは僕の口にしたことかあなたが喋ることなのか
 父さんあなたの居ない僕は なんだか欠けてしまっているような
 欠けてしまっている僕は、見えてるものすら よく見えないような






 6月9日 (晴れ)

 無断欠勤した同僚の様子が気にかかる。
 先日のような事もあり、胸の内がなんとももやもやして晴れず、落ち着かない。夕刻、帰りがてらに遠回りをして彼の自宅周辺へと足を運んでみる事にした。
 気の進まないままに、家の前を伺ってみる。
 あの時の少年が立っている。
 じりじりとにじむように濃い橙色の陽を背にぼうっと、黒ずんで、
 玄関先を、じぃっと、見ている。
 怖い。
 理由もなく、そう思った。思うより早く足はすくんで、たかが、子供じゃないか。と、あの時の子供が何故ここに。と、同時に思考が交差して、
 歩道に映る長く伸びた影は、片目の部分だけ、ぽかりと空洞だ。影に穴が開いてるんだ。
(そんな事在る訳無いだろう)
 何してるんだね、そこは私の、知り合いの家だ。
「通りかかっただけですよ」
 人の家の、玄関先を、そんなにじぃっと見ているもんじゃない。こんな時刻だ、家に帰りたまえ。親御さんが心配する。
「探してるんですよ」
 何をだ、親とか、言うんじゃないだろうな。
「何処へ行ったんだろう。」
 顔の半分を隠す長い前髪、覗いているぎょろりと大きな、右目。
 何処を見ているのか、何を映すのか、さっぱり読み取れない空虚な暗い目。
 深い空洞。どちらが、眼窩だ。そんなことが頭の隅に過ぎったりする。
 ぽろりと落ちそうなほど見開かれて、こちらの方など見向きもせず、じぃっと、動かない。
 じぃっと、玄関を、家の中へ続くその扉を、まばたきもせず、見つめて。
 何を見ている。
「知ってますか」
 何を。
「僕は片目だから、片親でね」
「この、片側の、穴ぐらに、いつでもずーっと、閉じ込めててね」
 こちらを見ない横顔が、にぃと歪んで、笑った。
 ぞっとする。
「変だよ」
 思わず口走る。
「君、君のような子供が、そんな事を言うのは変だよ。変だろう」
 変に感じるのは正しいか
「普通じゃないだろう、何か、訳があるなら言いなさい。」
 訳が欲しいのは何故なんだ
「君の両親は何をしてるんだ、今何処に居るんだ」
 現実との接点が欲しいんだ。
「りょうしん、りょうしん、無いですねぇ。何処にあるのかな。」
 あると思っていたでしょう。 夕暮れの、濃い橙に溶けた一面の視界。目を突くまぶしい逆光が全てを覆う。目の前は全て影を引いて、黒々とたわみ盛り上がり、覆い被さってくるような錯覚に、ふいに足元が不安になり、今立っているここは、何処だったか、こんな気持ちは、それはまるで子供の頃の
 目の前の黒いアスファルトにその2本の足。境目を無くして、よく見えない。
 あるように見えていただけかも知れないですよ。
 おぼろげなただそうであって欲しいという理想でしかなかった、のかも知れない、ですよ。
 自分の知っている事だけが真実ではない、そうでしょう?
 在る筈の無いこと在り得ない事がまさか自分に起こるなど。
「穴が開いてるとね、風が入って、寒いんです」

 欠けるとねバランスが悪くて、狂うんです。






 6月10日 (晴れ)

 同僚が出勤した。しかし様子がおかしい。
 顔色は悪く憔悴していて、せわしなくきょろきょろと辺りを見回しながら、何かブツブツと口中で呟き続けている。
 絶えず小刻みに震えていて、卓上のコーヒーカップはガチャガチャとひっきりなしに音を立てた。その間にも呟き続けている。誰とも会話を交わすことなく、一人でずっと何か呟いている。
 何を言っているかは聞き取れない。口元を両の手で押さえ、時折苛立だしげに時計の秒針を睨む。心此処に在らずといった体で、何をしに現れたのかわからない。
 夕べの、あの子供の事を言いかけたものの、近づいただけでふいと部屋を出て行かれた。激しく避けられているようだ。
 あの子供と、そして、あの目玉が、
 なにやら関係しているように、思えてならない。





 6月12日 (曇)

 五才の娘の歌っていた唄
「6月6日に雨ざぁざぁ」
「お父さんあのね今日ヒィロォと会ってね、一緒に歌ったの」
「テレビで観たことあるよお父さんも知ってるよ」
「6月6日に雨降ったよねぇ?」
「玄関のとこで歌ってたらヒィロォ来て一緒に歌ってくれたの」
「お父さん居ないんだって」
「いつもテレビでも一緒に居るのに今何処か行っちゃったんだって」
「探してるんだって  頭なでてくれながら」
「きみにはお父さんが居ていいねぇって」
「6月6日に雨ざぁざぁ」
「早く帰ってくるといいよね」
「ちゃんと下駄履いてたんだよポストも手紙も本当だって」
「目玉が居ないだけ」
「あっというまにかわいいコックさん」
「6月6日に雨降ったよねぇ?」





 同僚が失踪する。









 夜半過ぎ
 また、あの公衆便所に、かの少年は倒れている。
 殴られて腫れ上がった横顔、切れて血を流す唇、痣だらけの両足を、力なく前に投げて、糸の切れた操り人形のように崩れ、首をたれて。
 私はなんだかこれが以前に見たことのある夢のような気がして、軽く悪夢にうなされているような感覚がして、確か雨も降っていた、土砂降りなのか霧雨なのか、辺りには濃い水の匂いが充満している。点滅を繰り返す切れ切れの電灯が、少年の上に低い耳鳴りのような音を落としながら、ブレている。空間が、私が、この場所が、この少年を境界にして、二重に震えてブレている。気持ちが悪い。酔いそうだ。
 現実なのか、夢にうなされているのか、わからない。吐き気をこらえて、何故だか泣きそうな悲しい気持ちになって。声を出す。君、君は、いつでも
「君はいつでもそうなのか」
 どうしてこんな言葉が出てくるのか自分ではわからない。
「戦わないのか、抗わないのか、どうしてなんだ」
 泣きそうなのか、哀れんでいるのか、怖いのか。
「いいえ」
 だらりと伸びた腕の、指先が、ぴくりと動いて汚れたタイルに爪立てた。
 顔を隠す髪の向こうにある見えない口が、ゆっくりと、動いている。嫌だ。
「そうじゃないんですよ」
「君はこれから何をするんだ」
 見えないものは怖い。いつだって
 何をするのか、何が起こるのか、解りようが無いから怖いのだ。
 髪で隠しているその奥の、暗闇で、何を考えている。こちらが見ていた、そうであると思い込んでいた表向きの姿形の裏で、
 君は何をして来た、何を隠してきた。
 思い出せ、よく考えて、もう一度この、少年を見つめてみろ。
 この少年の、 成り立ち は・・・
「隠すな、怖いよ、頼むから」
 泣きそうになっていた。子供に戻っていた。
 闇の間からこちらを覗き込むその目におびえていたあの頃の恐怖。
 隠れていたんだ 忘れていた 気付かなかったんだ こっちを見るな お願い
 ぼくわるいこじゃないつれてかないで
「嫌だ嫌だこっちを見るな」
 少年が顔を上げる。

「明日は、連れて、帰ります。」


 夢なのか現実なのかわからない。


 



 6月13日 (雨)

 夜11時、同僚が血相を変えて自宅に現れた。
 何処へ行っていたものか衣服は乱れ、泥にまみれ、
「あいつは何なんだ」
 紙のように白い、血の気の引いた顔色。瞬きひとつしないで強張るほど目を見開き、私の両肩に食い込んだ指先が、冷たく、ずっとぶるぶる震えている。尋常でない勢いで震えている。
「君、今まで一体何処に」
「あいつは何だ、あいつは、もし私が知っているその者通りだとするならば、あいつは」
 彼の吐く息は冷たい。顔にかかる熱を感じない。
 とても嫌な予感がする。目の前が少し遠くなる。
 あいつは子供の
 子供の頃の
「正義の味方じゃなかったのか」
「神仏おろそかにすれば、たたりを呼んだりするだろう」
 指の震えが、一瞬だけ止まる。
「正義の味方だって、同じ事だと考え付かないのか」
 もう守ってもらえたり、すぐ傍に居たようなあの頃とは違う。
 悪い事をしたら叱って貰えない、許して貰えない、
 悪い事をしたら・・・
「君は正義の味方を、怒らせたんじゃないか」

「正義の味方は、一番怒らせてはいけないものなんじゃないか」



 ある訳ねェだろ、そんなこと、ある訳ねェだろうがッ!
 叫んで彼は走り出す。止める声も聞かずに再び闇の中へ。寒気がする。私は、怖くてたまらない。
 おとうさんあのおじさん壊れちゃったの
 前とおんなじにはもう 戻らないの
 後を追いかける、家のものにそう残して。いい子で、寝ているんだよ、子供にそう告げて。
 今日は遅くまで起きていたら怖いものがやってくるかも知れないよ、と。
 だからいい子で、言う事を、ちゃんと、守るんだよ、と。

 夜道を走る。小雨が降っている。何処へ行ったものかわからないまま闇雲に、ただただ不安に駆られてひた走る。
 ある訳ねェこと、何故起こる。この世にそんなものは居ないと、夢みたいなことをと
 子供の時の、おはなしだ。
 おはなしが今、存在するんだ。
 あぁ悪いものがたりのようだ
 悪い大人が罰を受ける 子供がそれ見て、心に刻む。
 あんな大人になっちゃいけない。
 忘れちゃいけない おはなしなんかじゃない
 そうあの頃はちゃんと覚えていたのに
 どうして忘れたの?
 子供の私が、見ていたら、きっとそう言う。そう告げる。
 ほら闇夜は真っ暗だ。
 何も見えない、異世界だ。いつもの通りはまるで違う顔だ。しとしとと降る雨はもやのように視界をせばめ、迷い込んでしまったみたいにここが何処だかわからない。嫌な予感は胸中から飛び出し、全身にとぐろを巻いて圧し掛かる。吐く息はきれぎれに、震えている。もう今にも、しゃくり上げそうだ。
 ぼくのとうさん
 頭の中に、声がする。
 いやだ、こわくて、泣きそうだ
 私は必死で堪えている。
 ぼくのとうさん
 いつかの昔に、聞いた事のあるような、その、言葉が流れ出す。
 いつもいつも、ぼくといっしょで
 おんなじ目線で
 おんなじものを見て、そして

 黒い夜
 夜は黒い
 子供の頃に感じた恐怖そのままに
 真っ黒の闇の向こうから
 こちらへ
 言う事聞かなかったばっかりに
 言う事聞かない悪い子がね
 むかえに
 連れて



 知らねぇよぅ
 覚えてねぇよぅ
 わかるわけ ねぇだろうよぅ

 悲鳴が聞こえた。角を曲がる。

 彼は、こちらに背を向けうずくまり、震えている。
 言葉にならない何かをわめきながら、両手で顔を抱えて、がたがたと震えている。
 顔
 足がすくんで、近寄れない。

「さぁ、何をすればいいのかまた、言って下さい。」
 少年の声が響いた。
 顔を抱えてうずくまり、叫び声を上げる彼の少し先に、
 少年の後姿。
 下駄を履いて、黒と黄色の縞模様のちゃんちゃんこ。隻眼を、長く伸ばした前髪の下に隠した少年が、
 ずっと昔に見た時とおんなじ あの 姿のまんまで、立っている。
 さぁいつも通りに、どうするのかまた、教えて下さい。
 いつもいつも一緒に居たでしょう この場所で
 あなたが居ないと僕は欠けてしまうだろう
 欠けた存在だろう
 それでは困るんだ。
 また戻ってくれましたね。
「とうさん」





 ゆらり、とした動作で、身を翻す。
 それから獣じみた仕草で飛び上がり、影すら引かずに塀の上に現れて、
 鈍色の街灯に照らし出されたその顔はひどく赤い。
 化け物はその血で紅を染める
 まるで猩々の血のような強い赤。

 ゆらりと揺らめいて低く笑い、揺らめき立ち消えて残されたものは雨音ばかり。

 それがその少年を見た最後の日だった。

 











6 月 6 日 に