けらけ






 いいか絶対 この手を離すな
 離した瞬間闇の中へまっさかさまだ
 だから絶対 離すんじゃないぞ
 覚えていろよ
 忘れるな

 大人になっても 忘れるな







 むかし手紙を出したんだよ。
 宛先不明ですぐに戻って来たけどね。
 屋台の席で隣になった体臭のきつい男が、すぐ脇の煙草の自販機の前で俺を呼んでいる。10円足りねぇや、兄ちゃん、10円貸してくんねえかぁ、兄ちゃん。昔はこれっぱかしでお釣りが来たってのにな、喫煙者にゃ辛いご時世ときやがる。
 そうだ10円も入れたんだよ、封筒に。
 本で読んだら、なんか生活に困っているみたいな事書かれていたからさ。それと、
 依頼料、っていう、意味を込めて。
「おうありがとよ」
 手渡すと、男は、でかい口に目立つ出っ歯をむき出して、笑った。いかにもうさん臭い笑顔だった。
 あんたの分の飲み代も払っといたから、と告げて、俺は踵を返す。まぁ待て待ちなさい、男の言葉が自販機の、煙草の落下することん、という音と共に背中に響く。あんまり関わり合いになりたくない。
「誰に出したって、その手紙」
「テレビで観てた、アニメの相手だよ。子供の頃の話だよ。ポストに手紙を入れればやって来て」
 お化けを倒しておりました。まるで妖怪バスター。子供の頃の。
 俺の心の、ヒーローでした。
「そいつぁアレか、片目を隠した、黄色と黒の」
 そうだよ察しの通りだよ。続けようとする男の言葉をかわして、俺は歩き出した。別に約束がある訳でもない。待ち合わせてる誰かが居る訳でもない。行き先が決まっている筈が無い。
 お先は真っ暗。
 ふぅん、へぇ、ほぅ、気付かねえもんだな。男の独り言が、しつこく耳にまとわり付き追って来る。じゃあよう、借りとくぜぇ、金。妙に軽快な人を小バカにした調子で追ってくる。飲み代なんてどうでもいいです、後ろ手に手を振って先を急ぐ。この人とこれ以上関わるのなんか、怖いんだよ。まして10円なんか問題外だよ。
「20円、借りとくぜぇ」
 なんか人じゃないものに絡まれてる気がして、怖いんだよ、これ以上。


 昔出した手紙にね、  俺はこう書いてました。毎週どれだけ楽しみにしてるか、あんたにどれだけ憧れてるか、
 大きくなったら、あんたみたいになりたいです。どんな時でも守ってあげられる、どんな時でも恐れない、
『ぼくのまちには、ようかいポストがないので、なにかあったときにすぐてがみをだせないとおもいます。
だからふつうのポストでおくります。じゅうしょをかいているので、近くを見まわりにきてください。そのときうちにきてくれれば、ぼくは、あえます。
やくそくしてください。ぼくがこまったときは、たすけてください。10円を入れておきますので、これは、やくそく料です。(10円じゃたりないかもしれませんが、ぼくのおこずかいです。)』
 あの時俺にはさ、500円玉と、10円玉があったわけ。それどっちを封筒に入れようか悩んだわけ。子供だって結構セコいよね。いや俺だけがそうなのかも知れないけど
 10円しか入れなかったから、ダメだったのかなぁ。
 おこづかいそう全財産はたいて、誠意かな何て言うんだろうこの場合、真摯な気持ち、真剣さを、伝えないとさ。
 誤魔化したりしちゃ、伝わらない。
 それどころか罰だって当たるかも。
 なにかあったら、たすけてください。未来におびえた振りしたファンレター。それと、恐怖がいつか身近に迫ったらどうしようっていう、漠然とした恐れと。
 助けて下さい。
 助けて欲しいのは、あの頃か、今か。今なんだ。
 次の瞬間足元がガラガラと、崩れ。またやって来た、お馴染みだ。俺は暗闇に垂直に落下して行き、これは幻覚か現実か。多分、幻覚なんだろう。

 さっきまで歩いていた足元の地面がまっぷたつに割れる。裂け目に足を取られ吸い込まれる。手を伸ばして、縁をつかむ。気力はとうに失せている。
 ここ最近ずっと、この幻覚に悩まされている。
 地面が割れて落ちかけて、そして暗い地の底の、そこから囁く、囁いてくる声に。もう抗う気力も尽き果てた。そうだ本当はもうとっくに、這い上がる気力さえ空っぽなんだ。
 ぶらぶらと揺れる足先の、先の、そこ。お先は真っ暗。奈落の底。
 もういっそ手を離してしまおうか、この手を離して、終わりにしようか。そう思えてくる。
 だって何度も何度も堂々巡り。これから先も、きっと、ずっと、多分。嫌な事しか思い出せない
 おんなじことがくりかえし。
 頭の中に響いてくる、つま先からよじ登って耳元に唇を寄せる、奈落の底のそこからやって来るあの声は、現実かまぼろしか、きっと現実。
 また今日も失敗したね
 何回やっても、うまくいかないね
 今度の仕事も、クビになるね
 使えない そんな存在は 使い用が無いから 役に立たない いらないものだよ

 地面の縁に、つかまって。頭の中に響く声。手は、だんだん、震え出す。

 お酒飲んで飲んで飲んで忘れても 結局明日は来るんでしょう?
 そしたらまたこれからもずっと おんなじことがくりかえしだよ
 立ち直っても立ち直っても追いつかない どうにもならない精一杯
 誰もお前に期待してなどいないじゃないか
 お前が さ 今まで 頑張ろうもう一度頑張ろうとふんばって 立ち直り続けるそのたびに
 周りの者のうんざりする顔 失望する顔 見えない振りしててももう限度があるだろう
 わかってるんでしょ もう無理だって
 どんなに這いずり上がろうとしてても無駄なんだって
 さぁ では それならば
 どういう方法をとるのが一番 正しいか ほんとは頭の良い利口なお前になら もうわかってるんでしょう?


 地面の縁にしがみつく手が、震えている。重くて辛くて、震えている。
 小さい頃はさ、手紙を出したよ。
 どこかにきっと、助けてくれる存在が居るって、そんなふうに信じてた。安心できていたんだ。願えばきっと、必ず叶うものだと信じていたんだ。
 たすけてください
 助けてくれない。
 大人になってしまったら、もう、助けてくれるものなど、いない。
 さぁもういい加減諦めて
 その手を お放しよ  頭の中の優しい声は耳たぶを甘く噛んで、揺れる声音で呼びかける。 お放しよ お放しよ 潮時だ
 お前はここ数日ずぅっと 悩んで泣いて苦しんで 苦しみ続けて ほら もう 幕を下ろそう 引き際だよ 惨めな自分と決別する頃合だよ
 手を離したなら
 楽になるよ
 からっぽ。
 まっくら。
 暗いよ、怖いよ、真っ暗だよ。闇が深くてこの先なんにも見えないよ。
 たすけて、たすけて、 助けてはくれないよ
 お前を繋ぎ止める、手は無いよ。
 助けて。
 助けて。
 さようなら。

 指先の力を抜いた。支点が、体が、感覚を失くしてふと浮き上がる。あぁ、落ちるんだ、と、思った。その時。



「何やってんだあ!」

 力強い声が、降って来たんだ。



 殴られたような鋭い痛みを伴って、ばしっ、と、俺は利き手をつかまれた。あまりの衝撃にびっくりして、閉じていた目を開けた。すげえ怒ってる顔がある。
「うそ」
 見た事のある、顔がある。
「お前何やってるんだ!今時小学生だって、あんな声には耳をかさないぞ!」
「うそ」
「嘘じゃない!」
 昔に観ていた、顔がある。
 それは毎週テレビで、俺はすっごく楽しみにしてて、子供の頃の、ポストに入れた、
 片目の隠れた、黄色と黒の、カランコロンとか音させて、そんでこっちをとんがったすげえ怖い目で睨みつけてる
「き、」
「まだ騒ぐつもりか、いい加減にしろ!」
 闇を穿つほど通り抜ける、張りのある声で一喝され、俺は反射的に首をすくめた。でも違った。俺に向かって怒鳴ったんじゃなかったんだ。
 髪の毛が針のように鋭く尖って、俺の横顔をかすめて飛ぶ。奈落に向かって飛んで行く。見えないほど遠くて果てしなく暗いそこから、何かのうごめいた気配、悲鳴、断末魔のようなものが轟いた、気がした。風が起こり、風圧に、着ているものが少しはためいたような、気がした。
 面倒な奴め。頭上の声は小さく舌打ちをしている。
「さぁ」 それから、
 地面の縁にぶら下がる、俺の手をつかむその手に、ぐっと力を込めて、
「上がって来い。それともそこに、そのまま居るのか?」
「うそだろ、なんで」
「あぁじゃあ嘘でも何でもいい。上がるか、留まるか、どっちを選ぶんだ」
「うそだろ、なんで、あんたなんで居るんだよ、なんでほんとに居るんだよ」
「居たら駄目なのか」
「なんで、来てんだよ、なんで……」
「手紙を出したんだろ」
 ずっと昔に。
 書かれていた内容は、
 ぼくが いつか こまったときは たすけてください。
 俺の手をつかむその頭上の相手は、にんまりとふてぶてしい得意そうな笑みを浮かべて、俺の目を凝視している。
「なんだよそれ、なんだよ……」
「願ったんだろ、神様でも仏様でもない相手に。自分がいつか本当に困った時に来てくれってな。それとも今がその時じゃなかったか?」
「だってあんたなんか」
 嘘だろ。
 物語なんだ。
 テレビで観ていた、テレビの中の。
「あんたなんか……」
 泣きそうなの?俺。
 嘘だ、嘘だ、こんなこと、こんなことは嘘だ。
 信じられるか信じてたまるか。
 なんだこの手のひら。あったかくて力強くて
 俺の手をしっかりつかんで、離さない強さ。
 リアルだ。
「嘘っぱちじゃないか」
 握り締められたこの手は、熱くて、痛い。どうしようもなくリアルだ。
「作りもんじゃないか。作りもんなんかに、なんだよ、救えるわけねえだろ、どうせ今目を閉じて、また開いたその時には消えちまっているとか、そんなオチなんだろわかってんだよ、こりごりだよもう」
 居なくなったじゃん 簡単に。簡単に、居なくなったじゃん 
 最終回。信じていたのに 信じたところで、手を振るように
 俺が子供が、伸ばした手の先で その手を、信じたその先を、
 振るように
「ハ、そんな事言いながらお前、さっきからまばたきしっぱなしじゃないか。どうだ居ない様に見えるか、この姿。お前の目には、映らないか」
 唇をひん曲げて嫌みったらしくうそぶき、あいつは、笑う、怒ってるみたいな強いあの目で、そうだこんな目をしていた。いつも。力強くて、揺るがなくて、自信に満ちた、
 先陣切ってさぁ行くぞと呼びかける、お前も行くぞと呼びかける、
 テレビ画面の外側の俺に、鼻垂らしたクソガキだった俺に、俺みたいな子供たちに、
 まるで、そうだよ、
「……信じられないよ、信じるの、もう、嫌だよ」
 あんたは、ガキの頃の、俺の、
「何か信じたりして、裏切られたり、お終いになったりするの、もう、嫌なんだよ嫌なんだよ嫌なんだよ」
 兄ちゃんみたいな。
「泣くなよ」 うつむいた真上からそう降ってくる。顎をつたって涙のしずくぱたぱたと、奈落の底へ向かって行った。鼻水も。ずずり、すすり上げる。出てくる声はひしゃげている。
「……あんただって、そうだったじゃないか」
 そして最後にテレビの向こうで、あんたが教えてくれたのは、
 さよならだけが人生だ、変わらずずっと 続くものなど何も無い、すべてはみんな 終わってしまうという、
 現実の世界。
「そしたら全部、無意味じゃないか……」
 来週からはもう居ないんです
 たすけてくれるだと 笑わせる。
 来週になったら もう どこにもどこにも居ないんです
 本当はどこにも居ないくせに
「信じられるか!あんたなんか全部勝手に最終回になって、どっか行っちまうくせに!」
「そうでもないぞ」

 するりと、俺の手をつかむ力強さが、消えて、俺はその手の中からすり抜けそうになる。

「うわあっ」
 叫んだ。とっさに叫んだ。考えるより早く両手でしがみついていた。両手がその手にしがみついていた。笑い声が聞こえた。あいつが笑っていた。
 ほら。そして新たに、ぐっと力が込められ、さっきよりももっと、ずっと強い力で、握りしめられ、
 ほら。生きたいくせに。信じたいくせに。
「呼んだら、来ただろ」


「もう一回聞くぞ」
 お前は、呼んだろ。
 それでも、呼んだろ。
 心の底から、願いを込めて
 たすけてください ぼくがこまったときは
 どうかこの手を ひっぱりあげてください
 はなさないで ぜったいにはなさないで
「手を、離して欲しいか?」
 おぼえているから ずっとまっているから
 大人になっても
 わすれないから
 俺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、前がよく見えない。ただ、あいつのまなざしだけ感じる。焼けるみたいな。見られたそばから焼け付き焦げるみたいな。光線みたいに真っ直ぐな、それは、うつむいたりブレたり、誤魔化して微笑む事など一切しない。
 強い。なんでどうしてそんなに強いんだ。がしりとつかまれ握りしめられたその箇所は、微動だにせず震えない、迷わない。約束を、守るみたいに。決して嘘をつかなかったという、自負と誇りに満ち溢れた力強さ。
「離して欲しいか」
 真っ直ぐに通り抜ける、その目で、その声で、あの時と変わらぬその存在で、あいつは俺にそう聞いた。
 しんじています
 どんなときでも
 やってきてくれる
「離さないで」
 泣きじゃくって上ずる、鼻水絡んだみっともない声で、必死にそう答える。
「離さないでください、お願いします」
 泣きそうだ、大声上げて、泣きそうだ。喉元にこみ上げ肩が震えてきて、俺は両手で、全力で、その一本の腕へとしがみつく。「よーし、わかった」物凄え満足そうにただ平然と返事が返って来て、なんか、こんな図体の大の大人がしがみついてんのに、物ともしてない何なんだよ。何なんだよあんた、ほんとに、
 あの頃と変わらない、あの頃のまんまの、姿で、
 ほらテレビの向こうから呼びかけて来た、
 お前も一緒に戦うぞって、鼻タレガキに呼びかけた、
 力強くて、あったかい、


「ほら引っぱるぞ、登って来い!」

 俺らのヒーロー。
 俺らの、にいちゃん。


 一度握りしめた手は決して、離さない。



「泣くんじゃない、根性出せェ!」

 うええ。

 うえぇぇん。






『この手を離さないで』
 ずっとむかしに、きみとぼくがであった。

 一緒に叫んで、一緒に飛び跳ねて、走って転んでさんざん泣いて、笑って笑ってまた来週な。
 楽しかったな 楽しかったか
 もう覚えていないか 来ては去ってゆく 凄いスピードだ
 思い出話も出来やしないな
 なぁ一度 聞いてみたかった事がある あの頃は 楽しかったか あの日々のこと
 人生は短い 子供時代はもっと短い だから忘れてしまったか 応える事など出来やしないか
 それすら仕方の無いことなんだ

 だけど もし もいちど 呼んでくれたら
 覚えているか、また来週な。
 再び呼びかけ その手を 伸ばすことがあるならば
 覚えているか、また来週会おうな。
 必ずつかむから そうだお前が手放そうとしない限りだ
 同じ手を 握ってやる 伸ばした方向へ あの頃と同じように 強く
 お前が忘れない限り 無くさない限りずっと
 楽しかったか
 楽しかったんだ
 だからまた、来週だ。
 人生は短い
 来ては去り続ける
 老いては生まれ、生まれては老いて、
 すべて過ぎ去ってゆくものばかり
 だけど手を伸ばせよ
 お前が望めば、手を伸ばせよ いつだって
 離しはしないぞ 俺だって
 わすれない



「気付かねえもんだな」
 繁華街の喧騒を横目で見ながら、ネズミ男が手の中で小銭をチャリチャリいわせている。
「案外その場に居たとしても、結局他人の事なんざよく見てねぇって言うな、芸能人みてえなもんで」
「借りた金はちゃんと返すんだぞ」
「いらねえって言ってたぜあのガキはよ。それに、もうひとつの方は依頼料だ」
 手のひらを開くと、10円玉ふたつ。
「〆て20円也。安いねえガキの、考えるこたぁ」
 煙草が買えるぜ。
 お前の願いで、煙草が買えたぜ。
「まいど」
 ネズミ男は、10円玉ふたつ、ぎゅっと握り直す。



 人生ははかない
 子供時代は もっとはかない
 きみがわらって ぼくが笑った

 覚えていろよ
 忘れるな

 大人になっても 忘れるな。