そこに居たのか
 そこに居たんだ
 気付かなかっただけだろ
 知って いたくせに


 忘れたなんて言うなよ、少年。







 朝から重く垂れ込めた雲のせいで、昼中になってもちっとも陽ざしが差し込んで来ない。
 朝からずっと、なんだか、なんにも出来ずに、部屋の中に座っています。
 はじめっから夕方みたい。
 白々と輝かないから、ずっと動かない灰色が外に、長々と横たわってびくともしないから、
 ぼくもなんだか動けなくって、体が沈むように重くって、床板の隅に、丸まっている。
 扉の外に広がる世界よりこちらは、黒い戸壁に区切られているこちらは、あちらに見える景色よりいっそう薄暗く、すべてがぼやけて映る。緩まるからだ、目覚めてこない細胞。ゆるめられてそのまま、眠れと言われてるみたいだ。丸くなっていないとなんだか寒いんです。淀んだ暗い空から時々細い風が吹き込んで来る。
 つめたい。冷たくて寒い。ぼんやりとしたまわりの中うつろな目。閉じているのも開けているのもおんなじの気がする。
 鬼太郎さんは扉の前の、柱の前に座って、さっきからずうっと外を見ている。
 だらしなく投げ出した左足、右手を乗せた右足、右手の上に傾けた首を預けて、あごの下の宙に浮いた手首が、ゆらゆら、ずっと、揺れている。
 さっきからずうっと揺れている。
 口元がうっすら開いて、笑っているみたいに見えた。
 髪の間から、のぞく、右の目が、
 あれ今、光って、見えたよ、どうして。
「お客さまが、来るんですか」
「甘い匂いがするよなあ」
 開いたくちびるが、動いたようにも見えなかったのに、とてもはっきりした声音で。鬼太郎さんはそう言った。どろりと流し込まれたみたいに鈍い動きのぼくの口など、初めっから開かれなかったみたいに。
 なにの匂いだろう。扉の外を真っ直ぐ見つめたまんま、鬼太郎さんは続ける。
「ぼくにはさっきから、石炭の匂いしかしないです」
「石炭?」
「はい、鉄錆びた、白い燃えカスの匂い。焼けて燃え尽きて白い粉になったのに、空気の中しつっこく漂っているんです。嫌いです鉄みたいな匂い」
「差し込んでくる別の匂いがあるだろ。ほら、集中してみろ」
 あたまがぼんやりとしてうまく世界を図れません。
「刺すみたいだろ。ほら、風」
 その時その言葉の後に続くみたいにひんやりとした一吹きが ひゅう と。
 ぼくの鼻孔を突き抜けた。あ、つきささる、甘、
「水仙の匂いです」
「水仙か、これ」
「はい、今の季節に、咲きます」
「あそこに咲いているのが、それか?」
 投げ出された左腕を、鬼太郎さんはゆらゆら、揺らめくように、持ち上げて、ひとさし指を張りぴん、と、音が立つみたいにその瞬間、真っ直ぐに、扉の外めがけて付き立てた。
 あなたはどうしてゆらめかないの。
「ぼくの場所からは見えません」
 あなたはどうして沈みゆかないの。
「星みたいな形をしている、花だなあ」
 さっきから揺れているのはぼくと世界のふたつっきりで、
「鋭い切っ先の、尖った」
 あなたはどうして、そこに、そのまま、はっきりと、
「刺すような匂いを振り撒いている」

「お客さまが、来るんですか?」
「どうして?」
 また見ない。鬼太郎さんはぼくの方を一度も見ないで、ずっと扉の外を見て、口が、楽しそうに、半開きのまんま。
 乾いちゃうよ。
「誰かを待ってるように見えます」
「そう見えるか?」
「見えます。楽しそうです」
 鬼太郎さんは、笑ってるんです。
 待ち受けてる。
 真っ暗な白昼で、開けっ放しの扉の内で。
「ぼくも知ってる人ですか」
「いや、誰も、会った事は無い」
 認めた。
「知らない人なんですか」
「いいや、知ってる。知っているのに、会った事だけが、無かったんだ」
 そう、知っていたのに。確かに、知っていたのに。
 今まで、一度も。
 鬼太郎さんは笑ってるんです。
 今まで、あんまり、浮かべた事の無い、あの表情なんです。
 だからぼくは縮こまる。見ない振りして、ちぢこまる。
 風の音が、ひゅう と、鳴った。
 誰か来る。
 不意に鬼太郎さんは顔を上げた。上げたままで、なんだか、ぼんやり、にやにやしている。ぼくはその視線を追った。重苦しく乾いた空の下に、ぽつりと黒い点のような人影が遠く、浮かんでいた。
 黒い人影の周りを小さな竜巻が幾つも、渦巻いているように見えた。魔風がお供だ、生きてるみたいだ。こちらへだんだん近付いて来る。
 スーツ。
 背中にギター。
 梯子の下まで近づいた時、鬼太郎さんを見上げて、にたり と笑った。
 耳まで裂けてる大きな口で。
「やあ」
 はじめまして。
 その目をじいっと見下ろして、鬼太郎さんは唇を開く。
「来ましたね」
 ずいぶん、待ちましたよ。
 それはこちらも同じこと。
「ようこそ」
 鬼太郎さんぼく怖いです。
 石炭の匂いがいっそう強く、ぼくの鼻を刺して貫く。

 入り口で足を止めて、男はなんだか、目をぎらぎらさせてこちらをじぃっと見ていて、中に、入ってこない。
 鬼太郎さんはおんなじ体勢で、片足投げ出したままお行儀悪く、黙って見つめているだけ。それ以上招く事もしない。
 おきゃくさまをお迎えしたんじゃないの 待っていた と言ったんでしょう ぼくは怖いんです
 怖くて今仕方がないんです。
「ご挨拶に、伺いました」
 不思議な声の、持ち主だった。
 歌声みたいな。旋律みたいな。聞いてると、どこか遠くへ さらわれてしまいそうな。
「あなたが今も、ずっと変わらず、ここに居てくれていたことに」
 感謝して。
「ありがとうございます」
 鬼太郎さんの声も、なんだかさっきと、違って聞こえた。
 揺らぎの中で低く響き渡る。揺らがない、そこだけ揺らがない、助けてよお願いすがらせて願っても
 体がしびれて、そちらへ行けない。
「でも腹が立つな。どうしてあんたは、今まで来てくれなかったんだ」
 俺だけだ、あんたに、会って いないのは。
 待って、いたのに。
「さて。どうして、なんでしょうねえ」
 とぼけた調子で、男はうそぶく。目だけがぎらぎらと強い光で。男はじっと入り口から動かない。鬼太郎さんの爪先の、投げ出された床板の場所を、じっと見ている。口を裂いて、瞳を見据えて、にたりにたりと笑う。
「生意気なこの、迎え支度。あなたはやっぱり、ひどい人だ」
 六つの花弁、ダヴィデのエムブレム。刺し抜くこの切りつける強い強い芳香。麻薬。狡賢く辺りに、張り巡らせて。
「水仙千本、胸に飾れ」
「ほう、あなたはそうして、私を近付けまい、ほう」
 待っていたと言ってくれたのに  このサディストめ。
「あなたがそんなことをするのは、少々意外じゃないですか」
「その気になれば象だって消せる。気付いてなかっただろ」
 知らないだけだろ
 見てない、だけだろ。
 見なかった振りを、していただけか?
 男は嬉しそうに、頷いた。そうです、あなたは、そういう方だ。
 気付いて、いたよ
 ずっと、知っていた。
 だからずうっと、会える日を私は待ちわびて。そして。
 この日、今 この時を 得た。
「色んなことが、あったよ」
「そうでしたね。あなたのその、約束めいた希望のような日々」
「色んなことが起こって、過ぎ去ったよ。今ではもう遠い。全ての事は起こり尽くした」
「嘘を言いなさんな、ひひひ。そんなこと思ってもいないくせに」
 その言葉に、鬼太郎さんの目が、にやりと流れる。
「でなければ私を待っている、筈が無い」
 さあ物語を奏でましょう。これからはじまる、語られなかった、物語を。
 男は片手を。黒い影が薄暗がりに膨れ上がったように大きく、見えた。かくしているのに、男の牙が、かすかな光を反射してぴかり、ぴかりと発光した。ずるりと鼻に染み込んで来る鉄じみた匂い、ぼくはそれが怖かった。なにか、いけない何か、思い出しそう。
 気付いてはいけないなにか。知ったら、怖いような、身のすくむ力が抜ける、吸い取られる、そんな、誰なの、このお客さまは、いったい誰なの。
 上げた片手は羽根の無い、翼のようだ。
 どろん。ギターが、触れてもいないのに一音、鳴った。
 一音だけ、まがまがしく、まるで空間が歪むような辺りがひずむような、それなのに、頭の中がぐらりと揺れた。まるで、よだれを垂らしてしまいそうな、体の中心がぐるりと捻じ曲がってしまいそうな、どこかへ、連れさらわれてしまわれたような
 目が眩む音がひとつ
 ぱち  ぱち  ぱち  ぱち
 鬼太郎さんが拍手をしている。
 口を片方だけ吊り上げて、男は微笑み、一礼する。
「そろそろ時間だ、私は、おいとま致しましょう」
「これから、何を、始める気だ?」
「あなたが知っているあのこと。あの物語。これから始まるのは、あなたが知っていて、知っていたくせに、起こらなかった、すべてのことだ」
 あなたの暗い夜に 音楽が 鳴り
 しゃれこうべが 踊り出すのだ
「たくさんの、人が、犠牲になるか?」
 低い、けど、鋭い。にやにやだらしなく笑っている鬼太郎さんの口から、出る。声。
「たくさんの、血が、おまえのもとに、流れるか?」
「流れますよ」
 男は真っ直ぐ、鬼太郎さんの方を見ながら嬉しそうに呟いた。
「何人も、何人も、犠牲者が、出ますよ」
「ならば、俺は、とどめに、ゆくぞ」
 低く笑い声。
 ありがとう
 その言葉を、ずうっと待っていました。
「お待ちしています」
 ゆれ始める ながれだす すべての とまっていた時が
 終わらせるなどしない
 終わっていたとも思えない
 知っていたろう そこに居たろう ゆらめきつづけて いたんだろう そこで
 まがまがしい おまえのその
 これから起こる我らの陰惨なる会合に向けての
 これはちょっとしたインターバル閑話。
 はじまりを
 祝せ。

「それでは、また」


 男が去っていくと同じに、薄暗がりはなぜか、だんだん、ゆるまって、
 わずかにしらじらと明るくなり始める。沈み込むように重い体がゆるゆるとほぐれていくような気がする。
 後姿を向けて歩いていくその背中と上空に、暗い雲がぴたりと張り付いているみたいに思えた。やっぱり不吉だ。そう思った。あれ、今、なんて思った?
 不吉だ。そうだ不吉だ。こんなにぴったりなこの言葉、ぼくずっと思い出せなかった。なんで?
 思い出すのが、怖かったみたいに。
 ネコ娘さんの赤いリボンが駆けて来るのが入り口から覗けて、手を振ってこっちに走ってくるのだけど、急に、男とすれちがった瞬間、急に、
 なんだか奇妙な、こわばったような、おかしな顔つきをして、立ち止まってじっと、遠ざかる男の後姿を見ている。
 首を振って、はしごに手を掛けて、足元までその顔を覗かせた時、前置きもせずにいきなり口を開いた。
「ねえ今の男、血の匂いがしたよ」


 会いたかった
 会いたかったよ ずっと
 どろどろと揺らめきの中に立ち上がっている、ぎらぎらした、ぎらぎらした、何よりも わたしには みえた
 化け物みたいだった、あなた。
 それはね、世界じゃ
 ひかり に 見えたんですよ、あなた。ひひひ。


 それではまた。
 また必ず、お会いしましょう。

 








ゆ ら め き を う が て







3部で吸血鬼エリート が 観たかったのでした