天に雲が押し寄せてゆく。
 壮大な変化が気持ち悪い。
 この目いっぱいに限界まで広がっている至高の青空。
 青すぎて熱い。焼き切るみたいに。溢れた所から染み渡り、脳を焙られる。
 ひとつしかないんだ。
 大事にさせてくれよ。
 青焼けした俺の体は指先まで張り詰めているくせに、ゆらゆら、と、動く。
 埃っぽく干からびた晴れた場所を、揺らめくがしかし着実に、進んでいる。
 風が五月蝿い。
 俺を倒そうと考えている。
 片頬を歪ませ笑うように見せかけ俺の大きく吐き出した息は、
 真っ青だ。
 真っ青だったぞ。

 何を思おうとしていたんだったかな。
 そうだ、雲だ、天を物凄いスピードで、
 雲が、どろどろと流れてゆくんだ。仄白い神々しい輪郭をなぞった雲の群が、
 地上に巨大な影を落として。でも次の瞬間には跡形も無く。
 あぁ続々と続いてゆく。
 壮大な変化が気持ち悪い。
 俺なんかこうしてずうっと覚えてないくらい生きてるけど、何も変わらない。
 変わり続けてゆくものが丁度真上にあるらしい。
 頭皮はびりびりとざわめいている。
 上空高く、俺の頭の遥か高み、
 ごうごうと唸る音に向けて耳を澄ます。
 足取りはぐらついているようだ。
 調べに合わせて、酔っ払っている感じだ。
 踏みつける。急に地面を踏みつける。白い地面を、穴を、穿てと。
 何にも知らないくせに
 在り続けているものだと 思うなよ。


 ひとつしかないんだ。
 片目なんだ。
 だから溢れないように、
 こぼさないように、
 留めておくのは、厄介なんだ。
 焼け付く雷光に似た青色。
 見開く瞼の裏へちりちりと侵入する。開けっ放しの口の中で舌が痺れる。眼球を這っている。瞳孔に溢れ返る。網膜を浸し、ずぶ濡れに侵食してゆく、感覚に、
 俺は笑うんだ。痺れた舌を振り乱して笑うんだ。
 やれ難儀だ難儀な事だ。
 生まれたときから、
 失くしていたんだ。
 失くしたのはどうしてか、
 これっぽっちも覚えていない。
 もうひとつ持っていたのなら、
 こんなことにはならないで済んだのだろう。
 どうだかな。
 生まれた時の事は、なんにも覚えていない。
 でもただひとつ、
 ただひとつだけ覚えているのは、
 花火。
 花火が鳴ってた。
 生まれたばかりの
 真っ暗
 なんにも見えない俺のすぐ 耳元で
 花火が
 巨大な音が、
 花火みたいな巨大な音が、
 ばちばちばち と 鳴っていた。
 まばゆい、それは眩い、白い閃光が走り一面を裂いて弾け飛ぶ
 ばちばちばち 暗闇に色が付くような
 花火の音が、
 俺の耳元のすぐ 近くで
 鳴ってたんだ。
 頭のおかしくなりそうなそれは大きな 大きな
 それだけだ。
 そのまま育った。


 巡り吹く風が、俺の姿を散じようと吹きすさぶ。
 無かった事にする気だな。
 両足を地面へ、踏みしめる。両腕を交差させ、ほら片目だけを覗かせる。さあ来い、知らぬ間に声立てて笑っている。楽しくて仕方無い。荒れ狂え。
   お前の存在は最早在るべき形を逸してしまっている
   正しき元へ帰れ 異よ排除なれ
   お前など所詮自身の信念でのみそこに留まっているだけの異端に過ぎぬ―――
 吹けよ、吹けよ、さあ来いよ。吠え咽ぶ強風は次第に熱を増して、髪に隠された顔の片側をあらわにした。誰も触れなかった禁忌。俺は顔を上げ風の中いっぱいにこの笑い声を響かせる。熱く乾燥した埃っぽい空気が猛り狂うその中にびりびりと、響かせる。
 何も無い
 無かったようにと
 できるものか 笑わせるな。
 俺は在るぞ、確かに、在るぞ。ここに、見ろ、今、ここに、
 巡り巡って幾度も消し去ろうとも俺は居る。
 正しいか間違っているかなど初手から関係無い。
 俺は、生まれた。ここに、生まれた。見ろ、ここに、この目、
 勝者の理を持つ目だ。
 うねる風の一筋が、ふいに離脱して天空へと高く昇って行く。
 さざめく無間の雲の波間へと向かって昇る。光に滲んでぎらぎら輝くあの、神の一群が、
 次の瞬間にはひとつ、集まり、ぼこり、形を変え、むくり、倍に膨れ上がり、
 ぐんぐんと音をたてるように、次第次第に姿を成して、
 みるみる巨大な錫杖をかざした憤怒の観音が、
 天いっぱいに
 あれは雲観音なり
 悪鬼を罰すぞ
 俺か
 俺かよ
 参られよ。
 雲間の中央に細い光の筋が走った。観音の眉間。ぱりぱりぱり、と、乾いたものを裂く様な音が辺りの空気を奮わせる。その気配に全身は呼応して、頭の天辺から一本立ちに抜けてゆくぞくりぞくりと震える感覚、相対するただの一瞬間一瞬間、
 点滅を繰り返す眉間の稲妻。遠くの方で重く轟く、近付いて来る雷の音。
 錫杖をかざしたその姿はどんどん膨れ上がりながら半身を傾け、俺の頭上に迫り出して来る。ななめになって半分沈み、既に大気中に散じながらも体を広げ続け、閉じた両眼は固く開かない。
 ぱりっ、ぱりっ、と音を晴れた空、不吉に渡らせ、何度も爆ぜ放電を繰り返す、いつになったら炸裂させる。俺の右目に乱反射している。目を逸らさずまばたきひとつ俺はしない。右目に映っているこの世界、点滅するように色を変えた。焼け付くような燃える青空から、無彩色の干からびた劫末、端の方から赤くにごされてゆく。交互に点滅、繰り返した。眩暈がしそうだ吐きそうだ、タガが弾けて飛びそうだ、世界は踊り湧き立っているようなんだ。
 どくどくどく、と聞こえる、うるさい、俺の中で脈打つ流れゆく血の音うるさい、
 正気なんかとっくに
 その時どうっ、と暴風が、唸り声を上げて押し寄せて、俺は口を開けて何かを叫んだ。喉を開き切って何かを叫んだ。辺りは一斉に暗くなり、煽られて髪は狂ったように騒ぎ散り、隠されていたものを顕にする。
 俺は両手を広げた。汗の雫が熱砂に弾け飛んだ。
 どこか
 体の すぐ近くで
 雷の落ちた音
 腹の底に響き渡る音
 全身を穿つ 遠く轟き渡る
 覚えがある
 呼び覚ます
 それは
 瞬間、荒れ狂う風の中で爆ぜた小石が、ぴしりと俺の顔を打った。
 隠されていた場所を打った。
 それは 禁忌
 それは つぶれていた
 つぶされていた
 あぁ
 そうだ
 そこは
 雲観音の両眼が開き、俺のその場所目掛けて、雷光が放たれる。




 思い出した
 生まれた時のこと
 嵐の晩で雨の中
 重たい墓石の下から
 声を

 辺りには引っ切り無しに雷が落ちて、
 まるで、うるさい、
 巨大な音だらけの

 誰かが 俺を
 拾い上げ、
 墓石にぶつけた
 耳元で音がしたんだ
 ばちばちばち と それは まばゆい
 左目の中の世界は一瞬真っ白な光を走らせそれからすぐに真っ暗になった
 花火が
 花火の音が
 花火みたいな巨大な音が
 墓場一面 そこら中で
 つぶれた左目 左耳の奥で
 誰かが
 放り捨てた体の上に、撃ち付ける雨の音
 ばちばちばち
 ばちばちばち と




 思い出した。
 そうだ。
 思い出したな。
 それで、俺は、
 生まれて初めて、
 神に感謝する。

 ならば もう
 忘れはしない。



 頭の遥か、天辺で、
 焼け尽きた空が断末魔を上げて、端の方から崩れ落ちてゆくのが見える。
 乾いた風がびょうびょうと唸り声を上げて吹いている。
 青く焼けた体の中。
 辺りの空気は熱い。
 足元から立ち昇る陽炎。
 汗。
 ゆらゆら と 動く
 ゆらめく 進む 俺の足。

 誰かが
 俺を。
 思い出したぞ。
 さあ呟けよ。
 もう 忘れはしない。
 忘れない。
 忘れはしない。
 忘れはしない。
 忘れない
 忘れないんだよ。

「どこに居る?」









 あぁ信じたくないと
 あたまがおかしくなりそうだと
 心配するな俺なんかとっくに













花  火