歴史が振り上げた太刀(ギャグマンガ日和・芭蕉と曽良/サトル)
曽良が駆けつけた時、芭蕉は床に臥せてはいたがその顔色は悪くはなかった。神か仏かそれとも芭蕉の体に巣食う病なのかは知れなかったが、とにかく今芭蕉の命を司る何かは、彼の頬と唇へと生きた血色を返してやっていた。しかしその声は驚くほどか細かった。(まあもともと威勢のいい喋りはしないおっさんではあったのだが。)
「曽良君……わざわざ来てくれたんだねえ……」
「ええ、死ね死ね言ってた馬鹿じじいが本当に死にそうだと聞いたのでその最期をあますところなくつぶさに観察に来ました」
一瞬ほろりときたところをすかさずサクっといつもの無表情で切り捨てられて、周りに座っていた他の弟子達が「勘弁したって!」「もう死ぬんだからあんま冷たいこといわんといてやって!」と懸命に曽良を宥めているのを尻目に、芭蕉は布団の中で起き上がれないなりにじたばたとのたうちまわった。
「ヒドッ!ねえ私師匠でしかも今臨終だよ!?最期くらい略さないで芭蕉師匠ハンサ男バンザイとかそんな気の利いた言葉はでてこないの!?」
「あの芭蕉さん、うざいし臭いんでそろそろ死んでください」
「駆けつけて2分で死刑判決!?臭いって何、臭くないよ!」
「加齢臭が死臭に変わってきてます」
「ムキィー!!まだ死んでないっていってるだろー!」
なおも暴れる芭蕉の眉間に、曽良の断罪チョップが炸裂する。奇声を発しマーライオンのように血反吐を吐いてからおとなしくなった芭蕉の鼻と口に、実はそれまでも部屋に同席していたのだが全く存在感のなかった医者が手をかざしてまだ生きていることを確認したのを見て取ると、曽良は改めて枕もとに座り直した。それまでそこに座っていた医者を押しのけて。
「スランプでアホで腐っても廃人もとい俳人なんだから最期に辞世の句くらい詠んでから逝って下さいね」
「今廃人って言ったろ!明らかに言葉のアクセントが違ったよ!ていうかわざとらしく言い直すんじゃないよよけい腹立つなあもうー!曽良君の百貫デブ!ムニャムニャもう食べられないよブヒィー!」
「病気で逝く前に捻り潰しますよ」
「すいません」
すっと細められた曽良の眦に卑屈に小さな声で呟くと、芭蕉は大儀そうに寝返りをひとつ打って、近くに据えられた文机の上の紙と筆を曽良に指で示してみせた。
「じゃ、じゃあぼちぼち辞世の句、考えるよ…筆記お願いね、私もう起き上がれないからゼエハア。ていうか曽良君が着いてからの数分ですごく消耗したよ。あやうく布団の上なのに変死するところだったよ」
曽良は芭蕉を睨みはしたが、今度は断罪チョップを出さなかった。言われるままに厚く巻かれた紙と、墨を含ませた筆を取り、いつも通り横柄に、しかしこの弟子にしてはいたく穏やかに、「どうぞ」とだけ言って、句作を促す。
「ええっとね……『おしまいだ ああおしまいだ おしまいだ』」
「自分の過去の句パクってんじゃありませんよ。5年位前からうすうす感じてはいましたが、とうとう脳細胞だけ先に逝きましたか」
「う、薄々感じないで、そんな、切ない、事……」
徐々に芭蕉の息が浅くなっていくのが、曽良にも解った。僅かに身を乗り出してその顔を覗き込むと、苦しげではあるが何か馬鹿馬鹿しくないひらめきを得たようで、芭蕉の目にはむしろ生気を思わせるような光が差しているのが見える。
「……た…旅に…病んで……」
その息はもはやいつ途切れるか解らないほど弱々しくはなっていたが、顔色は悪くはなかった。神か仏かそれとも芭蕉の体に巣食う病なのかは知れなかったが、とにかく今芭蕉の命を司る何かは、最期に彼の頬と唇へと生きた血色を返してやっていた。
「……芭蕉さん、それから?」
筆を握った曽良の手が、紙の上を滑る。続きを促す声がいつになく優しいなと芭蕉は思って、そしてそんな事を思うのも自分はもうじきそう遠くない数瞬後に死ぬからなんだろうかなどと考えてみたり、した。
「…なお……かけめぐる……いや……やめよう……」
ぱっ、と目の前に広がったのは臥せってからこちら見飽きた天井でも、臨終の間際に見えるという三途の川でもなく、果てない一面の枯れ野だった。
天と地の狭間に立ち枯れる夕暮れを映した波にも似た薄の穂、点々と彩りを添える、ぞっとするほど赤い彼岸花、雲ひとつなく、僅かに紫を帯びた高い高い、天蓋すら透かす秋の空。
病んでいたはずの体はいつの間にか驚くほど軽くなっていた。近くには旅装束の曽良もいる。いつも通りの無表情で、そうだ芭蕉の少し前を歩んでいたのだろう。芭蕉の持っている鞄には、マーフィー君だってきちんとぶら下がっていた。
たのしかったねそらくん。
なんだかんだいってあのたびはたのしかったねえ。
またいつかあんな旅をしよう、それまでにきみの断罪チョップに対抗できるような大技を新しく考えておくから、私は師匠なんだから、今度は弟子には絶対負けないから、だからまたあんな枯れ野の中を一緒に。
春の花、夏の緑、冬の雪。
ゆめはかれのを、かけめぐる
「お見事です、芭蕉さん」
低く響く曽良の声からは相変わらず感情が読めなかったが、それでも芭蕉は曽良の言葉に小さく笑って目を閉じた。
閉じた目はそのまま、開かなかった。
何かの糸の切れたような弟子達の嗚咽の響く部屋の中、ひとり曽良だけが泣いてはいない。ただ、今自分が耳にしその手で書きつけた芭蕉の言葉に、無我といって差し支えないほどに、見入っている。
窓の外の世界はいつの間にか、冷たい秋の雨に覆われていた。
元禄七年、時雨月。
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史実とまるっきり違っててすみません。
元ネタともいろいろ違っててもっとすみません。