神も仏も筆で描く(鬼太郎とねずみ男/サトル)




 闇が深すぎて歩みを進めるうちに心もとなくなる、そんな道の一角に、いやむしろそんな道だからこそそこを歩く人間が赤い堤燈の灯りに吸い寄せられる事を計算しての事なのか、その屋台はいつも店を出している。
 ぼろ布一枚纏ったきりの背中に吹き付ける夜風を遮るものは、いかにも雨風に晒され続けたといった趣の暖簾が一枚のみで、ねずみ男はいささか猫背きみなそれを縮こませるように震わせた。

 「おお寒ぃ。おやじ、燗をもう一本つけてくれや」

 「そんなに飲んでお前、払えるのか?」

 屋台の狭い椅子にねずみ男と並んで腰を下ろしていた鬼太郎は、よく味の染みて醤油色になった大根を口に運びながらじろりと隣に視線だけを向ける。ねずみ男はそれには答える事なく、手元の銚子を逆さに振って、未練がましくその滴を手のひらに落とそうと試みていた。
 噛み砕いた大根を嚥下して暫し間があっても返事が返って来ないのに、鬼太郎の口からは諦めたような呆れた様な息が漏れる。

 「ぼくをあてにしているなら残念だったな、お前の分まで面倒みてやれるほどこっちも懐に余裕が無い」

 だがねずみ男は特におもねるような言葉を吐くことなく、何本目になるのか新しい銚子を受け取って小さく「あちっ」と呟いてからほのかな湯気の立つその中身を猪口に注いだだけだった。

 「おめえはよう、勘定気にして飲んでたんじゃどんな旨え酒だってドブ水以下だぜ。そんな飲み方したんじゃあ酒の神様に申し訳がたたねえ」

 お前も飲め飲め、とそのまま鬼太郎の前に置かれたジュースのコップの中にまで酒を注ごうとするねずみ男を、コップに手で蓋をして拒否を示す。

 「神も仏も銭の元としか思ってないお前にそんな事言われたんじゃ、神様もさぞ不本意だろうよ」

 「不愉快結構、どうせそんなもん何もしちゃくれねえんだ。せめて名前くらい好きに使わせてもらわねえと」

 鬼太郎のコップに酒を注ぐ事を案外にあっさり諦めると、ねずみ男は銚子を猪口に持ち替えて呷った。上向いたまま猪口に残った滴までちゅうちゅうと吸うのを、鬼太郎は最早呆れなど通り越したように無感動に眺めて、今度はがんもに齧りつく。するとねずみ男は名残惜しげに銚子を置いてからぼそりと、しかしはっきりと聞こえるように呟いたのだ。

 「……おめえは変なところで達観してて、変なところで餓鬼だなあ」

 咀嚼していた口腔内の食べ物が危うく別のところに入りそうになるのを、鬼太郎は必死に堪えた。今までの会話の何がどう繋がれば、この男はこんな事を言い出すのか。そんな表情が不意打ちも手伝って露骨に浮かんでいたのだろう、ねずみ男は空に何かを描いて図解でもしてみせるようにその指をゆるゆると動かした。

 「つまり、あれだ。神とやらが理由を持って存在しているんじゃないかって思ってるところがね、餓鬼だってのよ」

 鬼太郎はけほんとひとつ咳をすると半分ほど残っていたジュースをあらかた飲み干して、ようやく喉の平安を取り戻した。空になったコップに、ねずみ男が今度こそ酒を注ぐ。熱く燗をつけられていたそれはコップを白く曇らせて、間口の広いコップに注がれた酒の匂いはふわんと狭い屋台の中に立ち込めた。

 「耶蘇(やそ)教の神主、じゃねえや神父に聞いたんだけどよ」

 「ああ、お前教会の炊き出しでよく飯にありついているんだったな。いい加減やめろ。本来もらうべき人間まで回らなくなるだろ」

 「チ、薮蛇かよ。まあそれは今は置いとけ。耶蘇教の神様とやらは人間を救わねえらしい。いや、耶蘇だけじゃねえな、あらゆる神仏は人間を救わねえんだとよ」

 「なにを」

 言っているんだと言おうとしたそこでねずみ男がはんぺんを口に押し込んだので、鬼太郎はねずみ男がそれを飲み込むまで待たなくてはならなかったが、全般において食べ物をろくに噛まないねずみ男はほどなくその作業を終え、再び酒を猪口に注いだ。今度は惜しむようにちびちびと啜る。

 「炊き出しんとききいてみたんだがよ。衆生を救うってんなら何で俺はこうも銭に恵まれねえんだと思う?屋根のある家で腹いっぱいになる、ただそれだけの事が出来ねえんだ?ってよ」

 「それはお前、自業自得ってやつじゃないのか」

 「うるせえ。そしたら神父の野郎言ったよ。不意に転ぶのと受け身を取るのとではどっちがより痛くないでしょう、ってな。信じるってのは受け身なんだとよ、生きててもそれほど痛くないように」

 鬼太郎はコップの中身を…今度はジュースではないそれを…啜って、小さく眉を顰めた。 

「まあ人間にとっちゃ神も仏も筆で描いたただの線だ、それが真理ってんなら、真理なんだろうよ」

 しかしだな。
 しかしその理屈でいくと、受け身が取れない俺としてはどうもひどく痛いらしくて、かなわねえ。

 「尤も、もう全部痂皮(かさぶた)だがな」

 ねずみ男はそう呟くと、酒の残りをくいと呷った。