そうしてリアルにならざる終えなかった  (松岡鬼太郎と雪姫)/サトル




 ……鬼太公、おめえの妹を拾ったよ。墓場に捨てられていたんだ。
 かわいい赤ん坊だぜ。

 ぼくの妹だって?目を開けたまま寝ているのかいおまえ。

 おっかあの股のかわりに墓からひり出された同士、あにいもうとみてえなもんじゃねえか。

 おまえは相変わらずくだらないことを言う。しかし。

 しかし?

 このままけだものに喰われるのは忍びないのに、代わりはないな。
 妹よ心配するな。育ててやるよ。



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 雪姫は森に住んでいる。
 森以外の世界を彼女は知らないので、彼女は自分が森に住んでいるとすら、認識はしていない。そもそも、彼女は、周囲を取り巻く既に馴染みと化した、自分と似た形をしていたりまるで似ていない形をしたものたちがどのような存在であるのか、深く追求すら、したことはない。
 それらは雪姫にとって当たり前であり、また世界の全てであるからだ。

 「雪姫、おいで」

 雪姫に一番似た形をしたものが雪姫を呼んだので、雪姫は振り返った。二本の腕、五本の指、やはり二本のすらりと地面に立つ足に、ひとつの口が上弦の月の形に歪む。その歪みを微笑みと呼ぶことを雪姫は知らなかったが、その歪みは彼女に心地良い感情をもたらすので彼女はそれが好きだった。
 一番似通ったそれは鬼太郎という名前を持っていて、同時にそれは雪姫の兄という名前も持っている。

 雪姫が歩いたり走ったり、そして飛んだりできるようになった頃、鬼太郎は最初に、沼で泳ぐ魚や、木々の間を飛び回る小鳥や、けいとうの花のようなとさかを持つ鶏と語り、遊ぶ術を雪姫に教えてくれて、それは大層雪姫にとって楽しいものだった。
 しかし雪姫がそれをさらりと飲み込んだ頃、鬼太郎はそれまで雪姫が日に三度飲んでいた牛の乳を与える代わりに、魚や小鳥や鶏をその手で殺し、それを口に運ぶ術を雪姫に教えたのだった。
 それらは雪姫に酷い苦痛と嫌悪を与えたが、鬼太郎は雪姫が魚や鳥を食べることを拒むのを、叱咤はせず、叱責もせず、しかし許しもしなかった。

 「ねえ雪姫、お聞き。命は命を食べるように作られている。お前が食べなくたって、この森の誰かが食べるだろう。食べないお前はいつかやせ細って死んで、死んだお前も誰かが食べる。それがいやならお食べ。生きるために」

 今も食事の時間があまり好きではない雪姫に同じことを静かに語る鬼太郎は、昔はもっともっと大きかったような気もするのだが、最近は雪姫とそう変わらない大きさになっている。その証拠に、以前は鬼太郎は自分の前に膝を付いて屈み込んでそれを語っていた。だがいまは、鬼太郎は膝を折る事も腰を屈める事もない。雪姫はそれが少し嬉しい。
 それを鬼太郎に伝えると、鬼太郎は表情の薄い顔に絹を隔てたような薄い笑み(そしてやはり雪姫はその呼び名を知らなかった)を浮かべる。

 「食べたおかげだよ。嬉しいだろう?だったらもっともっと、食べなければね」


 だから雪姫は、鬼太郎がその日自分の名を呼んだときも、また例のあまり好きではない時間を告げているのだと思って渋々ながらも声のした方角へ向かって駆け出したのだった。
 しかし鬼太郎はいつもの食事の時のように火を熾してはおらず、梯子段を下りてすぐの家の外、ただ立って雪姫を待っていた。

「ご飯ではなかったの?」

 雪姫の問いかけに、鬼太郎はやはり何かを隔てたような曖昧な表情で、ただ一言「出かけよう」と答えた。





 それが雪姫の森にいた時の最後の記憶だ。
 ふと気がつくと、雪姫は古めかしい屋敷の中にいた。黒尽くめの気難しそうな男が毎日読み書きを教え、それ以外の時間は白い着物と朱の袴を着た女たちが甲斐甲斐しく雪姫の世話をする。
 初めて見る、レースのついたブラウスや箱襞になったスカート、咲き乱れて息苦しくなるほどの桜、横に倒せば瞼を閉じる人形、屋敷の庭から見えた、夜空を染める色とりどりの花火、千代紙で折られた鶴に菖蒲、指先を染めるほどに赤く色付く紅葉、日を透かしてきらきら輝くおはじきにビーズ、降り積もる雪でうさぎやだるまを作り、年を越した祝いに袖を通した大輪の牡丹が咲いた振袖、さらさらした手触りのお手玉。
 そんな、新鮮な刺激ばかりの毎日が無限とも思えるほど続いたある日、雪姫はふと、大切なことに気付いた。

   ここはどこなのだろう。
 兄はどこへ行ったのだろう。
 あの鬱蒼とした緑と闇の中、手を取り遊んだ異形の者達は。

 その日も読み書きを教えに来た男にそれを問い掛けると、男は常にその顔に張り付いている面白くもないといった表情はそのままに、言葉だけを少し淀ませて「もう無理だ」と言った。
 雪姫は座ったまま、膝の下にあるのが畳ではなく奈落であるかのような錯覚を覚えた。赤い五芒星が染め抜かれた堤燈までが(そんな筈はないのだが)ざわりと総毛だったように見えた。
 曰く、兄は、鬼太郎は、以前からとある事情で旧知であった黒い男に、雪姫を育てるようにと言付けてそのまま姿を消したのだという。


 おねがいしますいっこくどうさん。  この子をふつうのむすめのように、じゅうごでむねもふくらみ、はたちでおとなとなるように、好きなおとこがあらわれれば、むすばれてこどもをなせるように。
 つれあいとともに老い、そして死ねるように。


 それきり私もあの子を見ていない、と言い添えて男は続けた。

 「…お前たちは本来、人がそうであると思うまま、その形を変える事はない。事実あの子はそうだった。だからあの子はお前を私に預けたのだ。周りも己も人だと思えば、お前は人になる」



 雪姫は慟哭し、憎悪し、また哀願したが、しかしその身体は既に幼さから脱却しつつあった。伸びた髪、伸びた手足、嗚呼そういえば虫や鳥やけだものたちと心が交わせなくなったのはいつからだった?

 かのかんばせに張り付いていた、かつて雪姫を心地良くさせた歪み(彼女は今ではそれを微笑みだったのだと理解していたけれど)を思えど、いとおしむゆえか厭うゆえか、鬼太郎が何故雪姫を遠ざけたのかは雪姫には到底解らず、彼女に辛うじて理解出来たのは、もう兄と己の縁の糸が絡むことは二度とないという、その一点のみだった。


 結局その後彼女の胸は十五になるころには豊かに膨らみ、二十になる頃にはその身体は女となった。幾度かのありふれた恋の後に彼女は男と結ばれ、黒い男の屋敷から嫁に出る事となり、子を成すことはなかったが連合いとの縁は切れることなかった。いくとせものの月日を連合いと共に過ごし、その最期すら看取り、そして。

 
   雪姫は死ぬまで、森へ帰ることは無かった。



 
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 …育てるからには名前をつけなければ。ねえとうさん。

 そうじゃのう、あんまり可愛いから白雪姫とでもつけるか。

 はは、どこかで聞いたような名前ですよ。

 ううむ、ならば雪姫とでも。

 雪姫。それがいい。
 産まれたのが墓場であったって、この子には罪科なにもないもの。
 雪のように、真っ白なのだもの。

 ねえ。
 ゆきひめ。