The scar on my mind will show.




 ―――――あ、夢だ。


 汗が流れている。
 汗が、いっぱいに流れている。
 恐ろしく淀んだ空気。生温く喉に絡みつく空気。呼吸することの難しさを知らされる。
 汗が、……まばたきの合間にぽつりと滴り、指の間を、濡らして染みた。
 僕はくしゃくしゃの白いシーツの上に居るのだ。
 僕は酷い悪臭がたち込める、堕落したような暗い灰色の中に居るのだ。
 くすんで黒ずんで朽ちた壁の色。ひび割れ、無数に走り、まるでとうとう隔離された有様。
 低く、ヴヴヴヴ、低く、ヴヴヴヴ、鳴っているのは巨大な換気扇。
 頭上遥か遠く、恐ろしいほど高い位置にそびえ、回転を続けているらしい。
 その隣には窓がある。
 すりガラスが嵌め込まれ、観音開きの長方形の窓がある。外の様子は見えない。
 目の前には男が一人横たわっている。
 仰向けになった顔の上、シーツをすっぽりと被っていて、
 首元にはひらひらと、水玉柄のネクタイを締め、
 喉元にはナイフ。
 ……あぁ、ナイフ。
 その首の上にさっくりと、突き刺さっているのは、ナイフ。

 僕は無意識の内に手を伸ばす。
 男は呼吸している。静かに、眠っている。
 暴くのなら今だという予感がしている。
 何を?
 柔らかな感触。
 そっと、引っ張る。
 つぷつぷつぷ、音を立て、つぷつぷつぷ、赤い色をした滴の丸い玉。刃物を引いた直線上に、浮かび、滲む。ナイフが直線を描く。白い首筋に。この男の隠された顔の上に。室内いっぱい、立ち込める、悪臭に加わる、鉄じみた匂い。
 ふいに口中に同じ味を覚える。唇噛み締めていた事に気が付く。傷口を舌でなぞり、僕は顔をしかめる。
 手を掛けて、
 息を吐き、
 ためらいなどまるで無い。
 切り裂いた線上を、一気にがばりとこじ開ける。
(とたんにながれだしたあふれだしたあの どすぐろくなまぬるいあの こい めのくらむいきをのむはっとなるこい すごくこいあの あのいろ。)
 その中からひょっこりと、
 顔を上げたものがある。
 ……あ。
 ……。
 ……何でそんな所に居るんだ?ピンクの水玉柄をした、ヤモリ。


 久しぶりだな、元気だったか。
(会った事のあるような、気がしている)
 ヤモリはくぅーっと四肢を伸ばし、気持ち良さそうに背筋を反らせている。
 僕はふ、と少し微笑んで、彼のそのつるつるとした背中を、引っ張ったセーターの袖口に包んだ指先で、とん、とんと軽く小突いた。
(手が汗と、赤黒いべとべとで、ひどく汚れていたものだから)
 隣に横たわった男からは大量の出血が続いている。
 にもかかわらずその水玉のネクタイたなびかせた胸部からは未だに、健やかな。規則正しい上下運動がすうすうと続き、シーツ包まり隠れた下からは軽いいびきまで。
 何が起ころうとも変わらずすっと、何事も無いようにさっきからそのまんま、眠ったまま。
 ……割と鈍い男だったんだなぁ。
 呟きが理解出来たんだかどうだか知らないが、ヤモリはこくりこくり。にこにこ笑っているような揺らめきで、頷くような身振りをした。
 止まらない出血、流血。溢れ出し、一筋の軌跡を描く。
 白いシーツを伝って、一筋、床にまで流れ出す。
 ―――――僕は息をした。
 濁った空気、腐乱した酸素、淀む肺腑、無駄そのもの。
 あついな、
 あついよ、……暑い。
 窓を開けたい。僕は立ち上がる。
 窓は頭上遥か遠く高く高く高く高い高い遠い位置にそびえ立っている。
 今の僕には手が届かない。
 今の僕には無理だ。
 すりガラスの向こうに広がるのは、白っぽく凝固した空から降りしきる、雨、雨の降る景色。
(……多分。)
 つめたい、冷たい空気が、僕は、欲しい。
 ヤモリよ。
 早速だが、君に命じてもいいものだろうか。
 君は、この壁をつたい、登って、登りつめ、……あの遥か頭上の窓を、開くことが出来るだろうか。
 もし出来るならば、出来るとするならば、そうだな、一体、何が欲しい?
 例えば、そうだな、
 信頼とか。
 そうだ、僕は君に、信頼、を与えよう。
 それを君が、欲しいと望むのであれば、だが。
 ……ヤモリはにこにこ、ゆあんと揺れて、揺れ笑っているから抱き上げて、壁にその顔押し付けてみたら、するりと。
 するりと僕の手の中抜け出して、小さな吸盤ぺたぺたぺたぺた。おっ、と口にする間もなく上へ上へと。もそもそ、もそもそ、動き始めたじゃないか。
 小さな尻尾はまるでメトロノームのように、右、左。もそもそ、もそもそ登って行く。
 ……驚いたな、本当ー……に、登って行ったな。
 おーい。
 窓を開けることが出来るのか?
 おまえは、窓を、開けて、くれるのか?
 ヤモリはもそもそ登って行く。
 真っ直ぐに一直線に登って行く。
 ずり落ちてきたりとかしないだろうか、あいつ。
 いまいち何処か、抜けている奴だから。
 けれどヤモリは登って行く。
 何だか不思議と力強く、ともすれば頼もしくも見える調子で。
 ヤモリはもそもそ登って行く。
 僕は見上げる。見上げ続けている。
 いつの間にかこぶしを固く握り締めている事にも気付かずに。
 登って行く。
 見上げている。
 ―――――そして僕は次の瞬間、実に奇妙な事に気付いた。
 ヤモリは登る。
 のぼり続ける。
 ……登り、つづける、上へ、上へ上へ。
 僕は小さくなっていくのだろうか、それとも目玉が眼窩の奥へ、奥へ奥へと、引っ込んでいくのだろうか、
 ヤモリが登る、遠くなる、
 窓はどんどん高くなる、
 窓がどんどん遠ざかる。
 ヤモリはもそもそ登って行く。上へと登るその度に、
 ……窓も、どんどん、上へと昇る。


 あ、……。
 ……、
 ―――――もういいから降りて来い。
 叫んだつもり。
 しまった。
 声が出ない。
 喉が、完全に詰まってしまった。
 もう声が出ない。
 もう声も出ない。
 もういいから降りて来い、叫びたかった。伝えたかった。そうだろう。でも出来ないんだ。どうしてかなんて口にするのも馬鹿げている。口にしなかった報いだとでもいうのか、僕はどんどん苦しくなる。頼むから、頼むから、お願いだ、誰に?誰に何を言う?僕は誰に何を何が何て言えば良かったんだ?一体一体何を、何を僕は、この僕が、なにを、僕は、
 苦しいけれども伝え方などわからなかったんだ
 苦しいから苦しいと伝えたかったのか
 何にだ。
 ヤモリは登り続ける。
 僕はどんどん苦しくなる。
 泣きたいような予感さえする。
(かすれ声、悲鳴、よだれを垂らして痙攣する口角)
 見開いたままの目に映るのは遠くなる姿。
 取り残されることを目の当たりにする僕自身の本当の姿。
 降りて来て
 頼むから
 おねがいだ
 もう
 ヤモリは登り続ける。
 ピンクの水玉柄をしたヤモリ。
 瞳にぼやけたものが走った。
 僕が見るのはこれが最後。
 ヤモリは登り続ける。
 窓はどんどん遠ざかる。





 THE SCAR ON MY MIND WILL SHOW.
 そして痛みは二度と消えない。