「白昼堂々」



 最近顔色が悪いんです
 最近気分がすぐれないんです
 かえせ かえせ かえせよう。



 坂の途中にその姿を見た。
 乾き切った春の日その最中らしい。頭の中は白けて、薄ぼんやりとちらちら、陽の隙間に落ちる影の輪郭は定まらず、はっきりしない。
 坂の途中に、その姿を見た。背中、後姿。
 たおやかな若い女のもののようだった。薄紅色の着物を纏って笠を被り、砂風びょうびょうとまとわり付く小渦の中を、歩いている。歩いている。気味の悪い。
 なぜかそう思った。なぜそう思った。異質だ、そう感じた。日常に、あってはならないもののような。
 坂を上って行く後姿。薄紅の着物の裾が風にばさばさ煽られる。深々と笠を被ったその細いうなじ、こちらの視線に、振り返る、振り返る、いけない、いけない、こちらを見れば、
「見られちゃ不味いぜ、こっちへ来い」
 ふいに側の電柱の脇から手が伸びてきて、誰かが僕を裏陰へと引っ張り込んだ。強い力だった、頭が反動でがくんと揺れる、揺れ、あぁ、揺れてたんだ、
「あいつに気付かれたらなんねぇよ。あいつはいやみだ。妖怪いやみだ」
 ゆらゆらゆらゆら、あの着物の背中。陽炎みたいに怪しく、あやしく揺れて見えたんだ。小春日和の白昼、有り得ないのに。
 有り得ないあってはならないあれはきっと、
 こんな日常の白昼最中に、居るのは、いけない。
「妖怪いやみ?」
 僕がそう呟くと、相手の男は、骨張って血色の悪い人らしからぬそんな手で僕の腕をきつく掴み、声を落とせ、と鋭く急告した。汚れたマントを頭からすっぽりと被り、影の下から注意深く光る目。吐く息は臭気そのもので、口の端に、ぴん、ぴんと、
 尖る髭、丁度四本。計八本。まるでネズミだ。ネズミの男だ。
「あいつァな、人の『楽しみ』を吸うんだ。生気を吸うのよ。気力を吸うのよ。あいつに吸われちまったなら、残るのは骨と皮ばっかりだ。生きてるつもりの、屍だ。お前さんその様子じゃ気付いちゃいねえんだろう」
「馬鹿なだって、そんな、あんなきれいな」
 おんなの、ひとが
「大声を出すんじゃねえって」
 ほらあいつが、振り返るぞ。
 春の日、最中、白日の下、声を潜めた喧騒に、ゆらゆらゆらりと、あの異質。
「爺」
「静かにしろってんだ、気付かれたら御終いなんだよ」
 おんなの着物の首から上は、爺の顔を乗せていた。
 表情の窺えない、絵のような目だ。白目ばかりが目立つ藪にらみの目で、ついとこちらを凝視する。見える筈は無い。電柱の、影の中に居るからこちらは、見える筈は無い。ネズミの男はじっと息を殺す。
 口元に薄紅の袖を当てておんなの仕草。青みがかった肌の色、血色の通わないまるで、人ならざる、人で無い、ひとでなし
 なんだ、それ。
 肩すくめ、くるり背を向け、再び歩き出す異様から、ネズミの男は目を逸らさず早口で呟いた。
「生きてく気力を吸いやがる。イロ気煩悩楽しみみんな、独り占めにして、吸い込んじまうのが趣味なのよ。あいつがこの世に出てきたら、必ず決まって一騒ぎ起こるぜ。世の中またちょいと乱れるぜ。俺ァその騒ぎに便乗して、ひとつ稼がしてもらおうかいという魂胆よ。チャンスを窺ってこっそり後を付回してるのよ。邪魔すんじゃねえよだけどお前は、なんだよそんな」
「ひとの楽しみを、吸うのですか」
 楽しいと笑う笑顔、幸せよと感じていた、その感情を、
「どうしてそんなことをするのですか、その理由は、何ですか」
「俺がそんなの知るもんかい。存在理由に興味はねえよ」
「なんで奪う。なんで奪って、持って行く」
 そうかあいつに奪われたのか、
 僕の大事な、大事だった、楽しかった、
「お前、悪ぃことは言わねえ、あいつを追わねえ方がいい。お前さん自身、気付いてねえんだろうが、悪いこた言わねえ、身の為だ」
 知らねえままの方が幸せだってことがよう、この世に生きたきゃ、たっくさんあるんだろうがよう。
 許せない。許せない。呟く僕をネズミは不安そうに、面倒そうに、見つめている。その目。また、その目か。狡猾で逃げるだけの生き物はいつだって身を翻す準備を構えておきながら、哀れむような色を、かすかに湛えて、見ている。見ているだけだ。逃げる算段はきっちりとつけているくせにそんな。いつもいつも。弱いからって、非力だからって、自分もう何も出来ないって逃げる逃げる逃げるな自分ばっかり、
「おい止せ、なな何しやがるぉおい」
 自分ばっかり、辛い顔して。
 ぎりぎりと逃がさないぎりぎりと、狡賢く汚いその首を締め上げて、のたうつネズミが天に轟く程「お助けェ」と叫んだ次の瞬間だ。
 針が。鋭く細い針三つ。僕の足元すれすれに突き刺さる。驚いて弱めた両手の力のわずか一瞬の隙を付き、ネズミは逃れた。ぜえぜえと肩で息を切らしよろめきながらも、光る目。そうかこいつも人間ではないのか。
「髪の毛に見える針ですね」
 さっきのあいつも、ここに居るこいつも、なんだ全てが異様なのだ。お昼のこんな陽の高い内からよくもまぁ、異だらけじゃないか。ここに居るのは、異ばかりじゃないか。
「子供のだ。あァおっかねえ、おっかねえぜえ」
「子供?しかし、誰も見えない」
「もう追ってっちまった。あいつも、奴を追ってやがるのさ。楽しみ吸われて返せかえせと、理性を失くして、タガの外れた、おっかねえおっかねえ子供の鬼だ」
 あっちもこっちも、みィんなイカレた。
 こけつまろびつ、ネズミは叫ぶ。唄うように叫ぶ。脱兎の如く。
 どこか怯えてて、どこか鼻白みながら。逃げる、逃げる、白昼真っ昼間。
 どいつもこいつも、イカレ放題、異様だ、異様だ、狂わにゃ損々。
 奴の仕業だ、奴の仕業だ、
 見境つかねえ、怖えぇ、怖えぇ。



 陽光揺らめく、白日の下、めまいがするよな坂の道に、着物姿で歩いて行くおんなの背中を見かけたら、声をかけてはいけないよ。
 振り返ったそいつは爺、その顔をしている。驚いて開いたお前の口から飛び出すのは気体。期待。それはお前の生きる希望そのもの。
 そいつは人の、希望を吸うんだ。吸われちまったら骨抜きさ。空っぽすっからかん。残されたもの破綻。破滅。
 あら、そんなの嫌だって? 駄目だ駄目だ、そいつの言葉を聞いたら駄目だ。 そしたらこれからどうやって、生きていけばいいのか、わからないって?
 そんなら、いいわよ。
 かえして、あげる。
 そいつの吐くのは瘴気そのもの。吸ったらいけない、正気すら失う。おほほほほ、さぁ喜ぶといいわよ、失くす悲しみも失くしたら、ほら悦びなさい、よだれを垂らして行き着く先は、
 堕落。
 堕落。
 昇天。



 坂の途中で、その姿を見た。今度は惑わない。見失わない。
 その背を追った。ゆらりゆらりと砂風に、煽られよろめくこの身体。手を伸ばして空を漕ぐ。遠い、遠い、とても辿り着き難い。自分の咆哮が真空の中の様だ。まるで夢の中の様だ。自分も、あいつも、陽炎みたいだ。
 指先がついにその肩を握り締める。
「あんたのせいで僕は失くしたんだ」
 藪にらみの不吉な爺の目、ゆらぁりと振り返る。僕の姿を捉える。
「あんたがあいつの楽しみを吸ったから、あいつは僕を置いていなくなってしまったんだ」

『貴方と居ると、楽しくないの』
 妻。
 この世の楽しみなど全て失せた様に目を伏して、いつから僕を見なくなった。
『楽しくないから、笑えないの。貴方の側には、もう居たくない』
 どうしてだ、どうしてだ、どうしてだよ。青天の霹靂。嫌だ、嫌だよ、そんな現実ってあるものか。信じられない、受け容れられない。
 許せない許せない、逃げて行こうとする者は。大事だったのに。あんなに大事にしてたのに。
 許さない許さない、僕から奪うもの、全て。全てを奪った、お前が、あいつが、
「まぁ、汚いスーツねぇ」
 女言葉がつるりと頬撫で、首を締め上げる僕の両手が一瞬びくりと強張った。
 血の気の通わないゆるんだ怪しい目が、笑いながら、こちらを見ている。
 見ている。
 お世話してくれる人がいなくなったら、一人でなんにも出来ない子なのね。
「まるで何年も何十年も、着たきり着たままそのまんまで、放浪し続けてるみたいねえ」

『貴方と居ると、楽しくないの』は、誰のせい?
 許せない許さない悪いのは、あんたを置いて居なくなる奥さん?それとも人の、楽しみ気力を吸うやら生業として、闊歩し続けるあたしかしら?
 悪い子、だぁれ?
「思い通りにいかないのなら、あんた直ぐに暴力を。振るうのねえイヤだわ怖いわぁ」
 ざわざわ、空気が、歪み始める。妖怪は笑う。僕を正面から捉え放さない。首に掛けた手が震える。脂汗が滴り落ちる。爺の口はにんまりとブレる。
 大事、大事って、あーあ厭ぁね。なんて大きな子供かしらね。
「あんたの大事なものってなァに?」
 自分でしょ。
 自分のことしか、見ないでサ、
「自分可愛い、執念かしらね。アラヤだ美味しそう」
 エゴイストの殺人者。いつまでそこに、そうやって、気付かない振りで、留まるつもり?
「黙れ、黙れよ、何でもそうやって、いつでもそうやって、僕が駄目だと否定ばかりするな。駄目だから逃げて行くのか、被害者面して切り捨てるのか、僕があいつを殺した?笑わせるな殺されたなら僕の方だ。妻が僕を置き去りにして、居なくなってしまってから空っぽの死人も同然だ、こうしてずっと長い事、探して求め彷徨い歩き」
「あァんもう聞いてらんないわよォ。厭よ厭よだいきらい、忘れっぽくて、都合の良い男の脳味噌。もうあたし、頭にきちゃったわァ」
 おもいだせ
 ぼこり。音を立て、次の瞬間、妖怪の手が、膨れ上がる。
 倍に膨れ上がったその手で、薄紅の女の着物から伸びる男の手で、凄い力が、僕の、首を、くびを、止せ嫌だ、あぁ
「思い出してごらんなさい、ほうら、こうやってサ」
 あんたがこうやって、あの時こうやって、いつも、こうやって、大事なものの、その首を、
「止めて、止めてくれ、嫌だ、ああ」
「失くしたほんとの、理由はねェ」
 あんたがこうやって、絞め殺して、しまったんでしょ。
 うわあああ。


 かなしかったんだ さみしかった
 くやしかったんだ にくらしかった
「欲深ねぇ。未練がましいったら、ねぇ。あたしのせいじゃないわ」
 どうしてぼくはいつもひとりひとりぼっちうしなってしまうの おまえのせいだ おまえのせいなんだそうだろう
「人のせいにしていられれば生きていられるものね。でも悪いわねぇ、あたしのせいじゃないわ」
 ぼくはこれからどうなるの
「あんたが成仏できないでいたのも」
 いやだいやだ うらみをはらすそのときまでは もいちどしあわせ とりもどすまでは
「あたしのせいじゃないわ」
 砂風びょうと吹く。妖しげな色めく赤紫の気体、爺の口へ吸い込まれる。



 ちくしょうちくしょう
 生気を吸われた
 執念を吸われた この世に留まる最後の気力を吸われてしまった
 あいつにやられた あいつにやられた
 あいつがあいつが悪いんだ。

 昇りゆく時、上昇の最中、電柱の天辺に逆光を受け、怒っている、子供が、立っていた。
 僕は掴まろうと手を伸ばしたが昇天の勢いは凄まじく、必死で伸ばした指もその肩をつき抜け悲嘆と絶望の声で泣き叫ぶ。子供もこちらに気付かない。見向きもしない。眼中になど入らないのかも知れない。
 凄く、怒っていた、怖い顔で、刺す様な片目で、地上を凝視していた。ギリギリと不愉快な、今にも飛びかかりそうに張り詰めた、憎しみで、子供は見ていた。地上を見ていた。
 地上にはあいつが。
 たった今僕から全てを吸い取ったばかりのあいつが。いつぞやのネズミの言葉がふいに甦る。
 楽しみ吸われて返せかえせと 理性を失くして タガの外れた おっかねえおっかねえ子供の鬼だ
 黄色と黒の縞模様、不吉な色のちゃんちゃんこ、狼煙の様に暴風に翻る、その姿、
 そうか、そうかそれならば、僕は願いを叩きつける。

 ならきっと、あの子があいつをやっつける。
 いやなあいつを、否哉あいつを、鬼がきっとやっつける。